忘れた初恋

第十二章「誤解の連鎖」

 無理やりのキスの翌日。
 私は朝から胸の奥が重く、書類を抱える手もわずかに震えていた。
 資料室での出来事を、どうしても忘れることができない。

 ——拒絶したのに。
 あの瞬間、心の奥で彼を求めてしまった。
 その矛盾を誰にも言えず、私はただ業務に没頭するしかなかった。



 昼休み、社員食堂の隅で同僚の囁きが耳に届いた。

「やっぱり副社長と莉子様って……」
「昨日、資料室で二人が一緒だったって聞いたわ」
「だから婚約話は破談になったのかも」

 私は箸を持つ手を止めた。
 ——誰が見ていたの?
 噂は尾ひれをつけて広がり、いつしか“既成事実”のようになっていく。



 午後、父に呼び出された。
 社長室の扉を開けた瞬間、空気の重さに息が詰まる。
 机の前に立つ父の隣には、例の御曹司が座っていた。

「莉子、お前は副社長と軽率な振る舞いをしたと聞いた」
 父の声は厳しかった。
「社内で目撃され、もう噂になっている。これ以上の醜聞は許されない」

「私は……」
 必死に否定しようとしたが、御曹司が口を挟んだ。

「やはり、莉子様には私のような人間が必要なのです。副社長では、令嬢の立場を守れない」

 その言葉に、胸がざわめいた。
 違う、私は守られたいんじゃない。
 ——本当は、ただ傍にいたいだけなのに。



 社長室を出た廊下の角で、悠真と鉢合わせた。
 彼も呼び出されたのだろうか、険しい顔をしていた。

「莉子」
「……悠真さん」

 一瞬の沈黙。
 けれど彼の口から落ちたのは、冷たい言葉だった。

「俺との関係を、否定したのか」

 心臓が跳ねる。
「違う、私は——」
「否定しただろう。父上と御曹司の前で」

 鋭い声が突き刺さる。
 私は唇を震わせ、言葉を失った。

「……やはり、君にとって俺は何でもなかったんだな」

 悠真が背を向ける。
 その背中に手を伸ばしたいのに、勇気が出ない。
 本当は忘れていない。初恋を、心の奥で今も抱き続けているのに。

 私の沈黙は、またしても“肯定”として受け取られてしまった。



 誤解はさらに連鎖していく。
 父の思惑、御曹司の策略、そして私の弱さ。
 すべてが絡み合い、二人の距離をさらに遠ざけていった。
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