忘れた初恋

第十三章「嫉妬の影」

 社内ロビーの吹き抜けに、秋の光が差し込んでいた。
 昼下がり、打ち合わせを終えた私は一息つこうと歩を緩めた。
 そのとき、背後から声がした。

「莉子様」

 振り向けば、御曹司が微笑んでいた。
 背の高い体躯に仕立てのいいスーツ。
 周囲の視線を当然のように集めながら、彼は迷いなくこちらに近づいてきた。

「ちょうどお会いできてよかった。今夜、夕食をご一緒にどうでしょう」
「……申し訳ありません。今夜は予定が」

「予定? 副社長とですか?」
 わざとらしい声音。
 周囲にいた社員たちが一斉にこちらへ目を向ける。
 噂はすでに社内を駆け巡っている。
 その上でこんな問いを投げかけるのは、挑発以外の何物でもなかった。

「そうではなく……」
 否定しようとした瞬間、背後から低い声が割り込んだ。

「彼女の予定は、俺が管理している」

 悠真だった。
 鋭い眼差しが御曹司を射抜き、空気が一変する。



 二人の間に立ちすくむ私をよそに、視線がぶつかり合う。

「管理、とは穏やかではありませんね」
「事実だ。少なくとも、君のような軽い誘いに応じる余地はない」

「副社長、あなたこそ社長令嬢の立場を考えていますか? 社内で噂になるような真似ばかりでは——」

「噂を広めているのは君ではないのか」

 刹那、御曹司の笑みが崩れた。
 悠真の声は冷徹だったが、奥底に嫉妬の炎が燃えているのを私は感じ取っていた。

「悠真さん、やめて……」
 慌てて二人の間に割って入る。
 けれど悠真の手が私の腕を掴んだ。

「莉子。君は誰と帰る?」

 その問いは、御曹司ではなく私に突きつけられた。
 心臓が跳ねる。
 けれど、答えられない。
 “副社長”としての彼に迷惑をかけるわけにはいかないから。

「私は……一人で帰ります」

 精一杯の笑みでそう答えた。
 悠真の瞳が揺れ、次の瞬間、冷たく光る。

「そうか。なら好きにしろ」

 彼は腕を離し、背を向けて去っていった。



 残された私は、御曹司の視線を感じながら、どうしても胸の痛みを抑えられなかった。
 本当は違う。
 悠真と一緒に帰りたかった。
 でも、そう言えなかった。

 誤解の連鎖は止まらない。
 そしてそこに、確かな“嫉妬の影”が落ちていた。
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