忘れた初恋

第十四章「心の壁」


 夜のオフィスは静まり返っていた。
 ほとんどの社員が帰宅し、フロアに残っているのは書類の山と、淡い蛍光灯の光だけ。
 私は机に向かい、今日一日の報告書を整理していた。

 ——あのとき、どうして「一緒に帰りたい」と言えなかったのだろう。
 御曹司の前で、周囲の視線にさらされて、ただ「一人で帰る」と言い切ってしまった。
 悠真の背が遠ざかる光景が、今も胸を締めつける。



 コトン、と背後で音がした。
 振り向くと、ガラスの会議室から出てくる悠真の姿があった。
 黒い上着を肩にかけたまま、私を見て立ち止まる。

「まだ残っていたのか」
「はい……書類が片づかなくて」

 短いやりとり。
 それだけなのに、心臓が強く打ち始める。

 彼はゆっくりと歩み寄り、私の机の端に視線を落とした。
「……御曹司と帰ったのか」

 低い声。
 胸の奥がずきりと痛む。

「いいえ、一人で帰りました」
「本当に?」
「ええ……」

 誤解を解きたい。
 本当は、あなたと一緒に帰りたかった、と。
 喉まで言葉がこみ上げるのに、声にならない。



「莉子」
 彼の瞳が、夜の光に濡れて揺れた。
「なぜ君は……俺を拒む」

 その問いに、全身が震える。
 拒んでなんかいない。
 ただ、初恋だったことを知られたくなくて。
 “忘れたふり”をしているだけで。

 けれど、それを説明すれば、すべてが露わになる。

「……私は」
 必死に声を紡ぐ。
「私は、自分の立場を守るので精一杯なんです。副社長に迷惑をかけたくありません」

「迷惑……?」
 彼の表情が険しくなる。
「君は、俺と一緒にいることを迷惑だと思っているのか」

「違います!」
 反射的に叫んでしまった。
 目に涙が滲む。

「違う……けれど……」

 その先を言えなかった。
 心の壁が、どうしても崩せない。



 沈黙ののち、悠真は小さく息を吐いた。
「……わかった。君がそこまで言うなら、これ以上は踏み込まない」

 冷たい声。
 その背中がまた遠ざかっていく。

 伸ばした手は、宙で震えたまま。
 壁を作っているのは私自身だとわかっているのに、それを壊す勇気が出ない。

 ——誤解は、まだ終わらない。
 心の壁が、二人をまた隔てていく。
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