忘れた初恋

第十六章「揺れる思惑」

 ——忘れていなかった。

 あの瞬間、胸の奥に火が灯った。
 十年前、雨の庭で交わした言葉を、彼女も覚えていた。
 あの幼い日の、震える声。

「……わかったわ。じゃあ、忘れる」

 小さな肩を震わせて告げた少女の姿が、今も鮮明に焼きついている。
 あのとき俺は、何も言えずに立ち尽くすことしかできなかった。

 だから彼女が「忘れていない」と涙ながらに告げたとき、本当は、抱き締めてやりたかった。
 だが同時に——疑念が胸を締めつけた。

 なら、なぜ。
 なぜ今まで、彼女は忘れたふりを続けてきたのか。



 深夜の執務室。
 書類に目を落としても、文字が霞んで頭に入ってこない。
 ペンを握る手が震える。

 彼女の沈黙は拒絶ではなかった。
 だが、そう思い込み続けてきた年月が、容易には消えない。

「……俺のものだ、と言ったとき。なぜ、涙を流した」

 机に肘をつき、額を押さえる。
 彼女の涙は、拒絶か、それとも——。

 思考は堂々巡りになり、答えが出ない。



 翌朝。
 役員会議で顔を合わせても、彼女は昨日の涙をなかったことのように振る舞っていた。
 完璧な社長令嬢の微笑み。
 誰に対しても礼儀正しく、冷静な態度。

 その笑顔が、俺を苛立たせる。

 どうして俺には涙を見せたのに、今は微笑んでいられる?
 それが“演技”なのか、それとも“防御”なのか。

 わからない。
 わからないからこそ、欲望だけが募っていく。



 会議後、廊下ですれ違った瞬間、思わず彼女の名を呼んでいた。

「莉子」

 振り返った瞳は、わずかに怯えを帯びている。
 その表情がまた胸を掻き乱した。

「昨日の言葉……本心か」
「……ええ」
「なら、なぜ忘れたふりをした」

 問い詰める声が自分でも驚くほど荒くなる。
 彼女は唇を噛み、視線を逸らした。

「言えません」

 その一言で、心臓が冷たくなる。
 なぜ言えない。
 俺にだけは本心を明かしてほしいのに。

「……俺には打ち明けられない秘密があるのか」
 低く問いかけても、彼女は沈黙で答える。

 その沈黙が、また誤解を呼ぶ。



 夜、窓の外で雨が降り始めた。
 街を濡らす水音を聞きながら、俺は胸の奥に渦巻く思惑を抑えきれなかった。

 ——彼女は俺を拒んでいない。
 ——だが、受け入れてもいない。

 その狭間で揺れる彼女を、待つべきか。
 それとも、強引にでも手に入れるべきか。

 欲望と理性が、何度もせめぎ合う。
 拳を握りしめ、独り呟いた。

「……もう、待てない」
< 17 / 27 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop