忘れた初恋
第十七章「嵐の夜」
窓を打つ雨音が激しさを増していた。
稲光が夜空を裂き、ガラス越しに白い閃光が差し込む。
雷鳴が重なり、オフィス街全体が嵐に揺さぶられているようだった。
残業を終えた私は、一人で資料をまとめていた。
社員たちはすでに帰宅し、フロアは静まり返っている。
外の嵐に足を止められ、私は帰る勇気を失っていた。
そのとき。
エレベーターホールから足音が響いた。
「……まだ残っていたのか」
悠真だった。
濡れた髪に雨粒をまとい、黒い傘を手に持っている。
いつもの冷徹な顔立ちなのに、目の奥に熱を孕んでいた。
「こんな天気ですから……少し落ち着くのを待とうと思って」
「嵐は夜通し続く。無駄だ」
短く言い切る声。
彼は私の机の前に立ち、見下ろしてきた。
「莉子。昨日の涙の意味を、まだ聞いていない」
「……」
「忘れていない、と言ったな。なら、なぜ黙っていた」
また問い詰められる。
胸が痛い。
“初恋だった”と告げる勇気は、まだ持てなかった。
「……言えなかったんです。立場があって、過去があって」
「言えない理由は、俺ではなく“立場”か」
雷鳴が轟く。
その瞬間、彼の手が机を叩いた。
「俺を拒む理由が、それだけなら——もう待てない」
気づけば腕を掴まれていた。
強く、逃がさぬように。
次の瞬間、嵐の音をかき消すように、唇が重なった。
「……っ」
抵抗しようと両手で彼の胸を押す。
けれど、嵐のように熱い力に抗えない。
震える呼吸が混ざり合い、涙が滲む。
「やめて……」
小さく声を絞り出すと、彼は荒い息を吐きながら額を寄せてきた。
「やめられるものか……十年も待ったんだ」
その言葉に、胸が震える。
十年前の、雨の日。
私が「忘れる」と告げたあの日の記憶。
「悠真さん……」
「俺はあの日から、ずっと君だけを見てきた」
「でも……私は……!」
言葉が涙にかき消される。
拒絶したいのに、心の奥では渇望が溢れて止まらなかった。
——本当は、彼を求めている。
「莉子。もう一度だけ聞く」
低い声が耳元で囁く。
「君は、誰のものだ?」
答えられない。
雷鳴がまた響き、嵐が窓を揺らす。
私の沈黙は、また誤解を生むのだろうか。
それでも、胸の奥でははっきりと答えが叫んでいた。
——あなたのもの。
けれど声にはできず、ただ涙だけが頬を濡らした。