忘れた初恋

第一章「社交界の花」

 グラスに注がれたシャンパンの泡が、光を受けて小さな星のように瞬いていた。
 春の夜、都心の高級ホテルで開かれるパーティー会場は、煌びやかな照明に彩られ、華やかな音楽と談笑が渦巻いている。
 名だたる企業の重役や社交界の人々が集まり、互いに挨拶を交わすその中心に、私は立っていた。

「莉子様、今宵もお美しいですわ」
「将来は素晴らしいご縁談が待っていますね」

 取り囲む令嬢や夫人たちに笑顔を返しながらも、心の奥は静まり返っていた。
 社長令嬢――その肩書が、私を常に「社交界の花」として飾り立てる。
 けれど、私にとってこの場のきらめきは、どこか遠い世界の出来事のように思えた。

 ――忘れたはずの初恋。
 胸の奥に封じ込めたはずの痛みが、このきらびやかな夜に再び疼く予感がしてならなかった。

 ふと、会場のざわめきが変わった。
 ドアが開き、人々の視線が一斉に吸い寄せられる。

「副社長がいらしたわ」
「やはりあの若さで、あの風格……」

 囁きが広がり、周囲の空気が一段と張り詰める。
 その瞬間、私の呼吸は凍りついた。

 ――悠真。

 長身のスーツ姿、精悍に引き締まった顔立ち。
 幼い日の面影を残しつつも、彼はすでに別人のように冷徹な空気を纏っていた。
 堂々と歩むその姿に、自然と人々が道を開ける。
 十歳の春、雨の庭で交わした最後の会話が脳裏をよぎる。

『……わかったわ。じゃあ、忘れる』
『平気よ。私はもう、初恋なんて忘れたから』

 忘れたくなかったのに、忘れると決めてしまった幼い日の呟き。
 彼は覚えていないはず――そう信じてきたのに。

「ご無沙汰しています、悠真さん」

 取り繕った微笑みで声をかけた。
 彼は視線を落とし、冷ややかに私を見つめ返す。

「……久しいな、莉子」

 低く抑えた声。社交辞令の笑みもない。
 まるで他人と接するかのような態度に、胸がずきりと痛んだ。

「お元気そうで……何よりです」
「君もな」

 短いやり取りのあと、彼は周囲の重役たちに呼ばれ、軽く会釈をして離れていった。
 背を向けるその姿を目で追いながら、私はグラスを持つ手に力を込める。
 会話ひとつで胸をかき乱されるなんて、情けない。
 私は、もう子どもではないのに。

 それでも耳に残る。彼の声、冷たい眼差し。
 どうしてあんな表情をしたのだろう。

 やがてパーティーが終盤に差しかかった頃、私は廊下の窓辺でひとり外を眺めていた。
 都会の夜景が宝石のように瞬き、遠くに小雨が降っているのが見える。
 ――雨。
 十年前と同じ、あの日の匂いを思い出す。

「……相変わらずだな。人に囲まれて微笑んでいても、心ここにあらずって顔をしている」

 不意に声がした。振り向けば、悠真が立っていた。
 彼の瞳が私を射抜く。

「え……?」

「君は、あの日のことを本当に覚えていないのか」

 静かに告げられた言葉に、鼓動が跳ね上がる。
 あの日――雨の庭。
 けれど、彼が何を指しているのか、すぐには理解できなかった。

「なにを……おっしゃっているの?」
「……いや。忘れたなら、それでいい」

 彼はふっと視線を逸らし、歩き去っていった。
 取り残された私は、シャンパンの泡のように心がざわめいていた。

 ――忘れたはずの初恋。
 けれど、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
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