忘れた初恋

第二十四章「決別」

 会場は凍りついていた。
 父の声が響いた瞬間、空気は重く張りつめ、誰もが次の言葉を待っていた。

「莉子。今すぐに副社長と手を切れ。でなければ——お前を娘と認めん」

 父の断罪。
 その言葉は胸を深く抉り、呼吸さえ奪った。

 隣では御曹司が冷たい笑みを浮かべ、勝者のように私を見下ろしている。
 そして目の前には悠真。
 私の手を強く握り、離すことなく立っていた。

「莉子……選べ」
 父の声が再び突き刺さる。



 十年前の雨の日が蘇った。
 薔薇の庭、濡れた花びら。
 少年の瞳を前に、私は震える声で告げた。

「……わかったわ。じゃあ、忘れる」

 あの日から私は、ずっと“忘れたふり”を続けてきた。
 家のために。立場のために。
 でも、そのたびに心は泣いていた。

 もう、繰り返したくなかった。



 私は父に向き直り、震える声を押し殺して言った。
「……父様。私は、娘としての務めを果たすために生きてきました」

 ざわめきが広がる。
 会場中が耳を澄ませている。

「けれど、私はもう、自分の心を偽ることはできません」

 父の眉が動いた。
 御曹司の顔が引きつる。
 私は一度も視線を逸らさず、言葉を続けた。

「私は——悠真さんを選びます」



 会場が大きく揺れた。
 息を呑む音、驚きの声。
 父の表情は怒りに染まり、御曹司は信じられないといった顔をしている。

 でも私は、一歩も退かなかった。
 震える膝を押しとどめ、悠真の手をさらに強く握りしめた。

「十年前から、本当は忘れてなんていなかった。ずっと……私の心は彼に向いていました」

 涙が頬を伝う。
 けれど、もう隠さなかった。



 悠真の瞳が大きく揺れた。
 長い間、誤解で覆われてきた彼の心に、光が差すのがわかった。

「莉子……」
 掠れた声が私を呼ぶ。

 私は微笑んだ。
 たとえ父に娘と認められなくても、家を失っても——。

「私は、自分の心で未来を選びます」



 父の怒声が会場を揺らした。
「愚かな娘め……!」

 だが私はもう怯えていなかった。
 悠真の手の熱が、私を支えていた。

 ——これは決別。
 けれど同時に、私の初恋がようやく報われるための始まりだった。
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