忘れた初恋
第二章「冷徹な副社長」
翌朝、私は父の会社の本社ビルに足を踏み入れた。
高層のガラス窓が朝日を受けて輝き、堂々とした外観は、社長令嬢である私にさえ圧倒的な存在感を与える。
社長秘書として働く私は、すでにこの環境に慣れていたはずだった。
けれど、今日は違う。昨夜のパーティーで交わした言葉が、心に棘のように残っている。
「君は、あの日のことを本当に覚えていないのか」
彼――悠真の冷ややかな瞳。
忘れたくて、忘れたふりをしてきた記憶を、無理やり引きずり出されたようで、胸が苦しい。
エントランスで足を止めた私に、同僚が声をかけてきた。
「莉子様、副社長が今日から本社に常駐されるそうですよ」
「……副社長が?」
驚きと緊張で心臓が跳ねる。
偶然の再会ではなく、これから毎日のように顔を合わせることになる――その事実が重くのしかかる。
午前十時。
役員会議に同席するため、私は資料を抱えて会議室へと入った。
重厚なテーブルを囲む幹部たちの視線が一斉に集まる。
その最奥に、悠真が座っていた。
冷ややかな黒いスーツ、揺るぎない姿勢。
かつて「友達だろ」と言った少年の面影は消え、そこには切れ味鋭い副社長の姿だけがあった。
「資料を」
短い言葉に促され、私は手元の資料を差し出す。
指先が触れるか触れないかの距離。
けれど彼は表情を変えず、すぐに書類へと視線を落とした。
――冷たい。
それが公私を分けるための態度だと頭では理解しても、心はざわめいた。
会議が進むにつれ、彼の有能さが際立った。
的確な分析と、隙のない説明。
幹部たちはうなずき、次々と賛同の声を上げる。
十歳のあの日、「父の会社を継ぐ」と言った彼の未来が、今ここに具現化されている。
誇らしいはずなのに、胸の奥は切なく軋んだ。
会議後、廊下で彼に呼び止められた。
「莉子。……少し時間はあるか」
「ええ」
小さな会議室に二人きりになる。
ガラス越しに差し込む光が彼の横顔を照らし、冷たい輪郭を際立たせていた。
「君は相変わらずだな。……昨日もそうだった。人に囲まれて笑っていても、本当はどこか遠くを見ている」
「……そんなこと」
「否定できないだろ」
低い声が突き刺さる。
彼はまっすぐに私を見据え、続けた。
「昔からそうだ。俺に“忘れる”と言った日から……君はずっと、自分の気持ちを隠している」
――“忘れる”。
あの日の呟きが、彼の記憶に残っていた?
思わず目を見開いた。
「……覚えていたの?」
「忘れるわけがないだろ」
冷徹な声。けれどその奥に、わずかな揺らぎを感じた気がした。
「……けれど、私……」
言いかけて、唇を噛む。
“初恋だった”なんて、今さら言えない。知られたくない。
彼は私の沈黙を「答え」と受け取ったようだった。
「やはり、君は何も覚えていないんだな」
失望を隠さない声音。
私は息を呑み、何も言えなかった。
彼は視線を逸らし、会議室を後にする。
背中が遠ざかるたび、胸が締めつけられる。
――誤解。
本当は忘れてなんかいないのに。
でも、初恋だったことを知られたくなくて、言葉を飲み込んでしまう。
冷徹な副社長と社長令嬢。
二人の距離は、また一層深く隔てられていった。
高層のガラス窓が朝日を受けて輝き、堂々とした外観は、社長令嬢である私にさえ圧倒的な存在感を与える。
社長秘書として働く私は、すでにこの環境に慣れていたはずだった。
けれど、今日は違う。昨夜のパーティーで交わした言葉が、心に棘のように残っている。
「君は、あの日のことを本当に覚えていないのか」
彼――悠真の冷ややかな瞳。
忘れたくて、忘れたふりをしてきた記憶を、無理やり引きずり出されたようで、胸が苦しい。
エントランスで足を止めた私に、同僚が声をかけてきた。
「莉子様、副社長が今日から本社に常駐されるそうですよ」
「……副社長が?」
驚きと緊張で心臓が跳ねる。
偶然の再会ではなく、これから毎日のように顔を合わせることになる――その事実が重くのしかかる。
午前十時。
役員会議に同席するため、私は資料を抱えて会議室へと入った。
重厚なテーブルを囲む幹部たちの視線が一斉に集まる。
その最奥に、悠真が座っていた。
冷ややかな黒いスーツ、揺るぎない姿勢。
かつて「友達だろ」と言った少年の面影は消え、そこには切れ味鋭い副社長の姿だけがあった。
「資料を」
短い言葉に促され、私は手元の資料を差し出す。
指先が触れるか触れないかの距離。
けれど彼は表情を変えず、すぐに書類へと視線を落とした。
――冷たい。
それが公私を分けるための態度だと頭では理解しても、心はざわめいた。
会議が進むにつれ、彼の有能さが際立った。
的確な分析と、隙のない説明。
幹部たちはうなずき、次々と賛同の声を上げる。
十歳のあの日、「父の会社を継ぐ」と言った彼の未来が、今ここに具現化されている。
誇らしいはずなのに、胸の奥は切なく軋んだ。
会議後、廊下で彼に呼び止められた。
「莉子。……少し時間はあるか」
「ええ」
小さな会議室に二人きりになる。
ガラス越しに差し込む光が彼の横顔を照らし、冷たい輪郭を際立たせていた。
「君は相変わらずだな。……昨日もそうだった。人に囲まれて笑っていても、本当はどこか遠くを見ている」
「……そんなこと」
「否定できないだろ」
低い声が突き刺さる。
彼はまっすぐに私を見据え、続けた。
「昔からそうだ。俺に“忘れる”と言った日から……君はずっと、自分の気持ちを隠している」
――“忘れる”。
あの日の呟きが、彼の記憶に残っていた?
思わず目を見開いた。
「……覚えていたの?」
「忘れるわけがないだろ」
冷徹な声。けれどその奥に、わずかな揺らぎを感じた気がした。
「……けれど、私……」
言いかけて、唇を噛む。
“初恋だった”なんて、今さら言えない。知られたくない。
彼は私の沈黙を「答え」と受け取ったようだった。
「やはり、君は何も覚えていないんだな」
失望を隠さない声音。
私は息を呑み、何も言えなかった。
彼は視線を逸らし、会議室を後にする。
背中が遠ざかるたび、胸が締めつけられる。
――誤解。
本当は忘れてなんかいないのに。
でも、初恋だったことを知られたくなくて、言葉を飲み込んでしまう。
冷徹な副社長と社長令嬢。
二人の距離は、また一層深く隔てられていった。