忘れた初恋
第三章「忘れたふり」
朝のエレベーターホールは磨かれた金属の匂いがして、光沢のある床に人影が幾重にも重なっていた。
止まるたびに開くドアから、革靴の音と香水の気配が流れ込む。私は胸の前でファイルを抱え、深く息を吸う。吸い込んだ空気に、ほんの微かな雨の残り香が混じっている気がした。
――雨。
思い出しそうになった記憶を、指先に力を込めて押し留める。忘れたふり。今日もそれでいい。
役員フロアに着くと、フロア全体の空気が少しだけ硬いのがわかった。昨日と同じ、いや、昨日よりも。
同僚がささやく。
「副社長、朝一で海外案件のレビューだって。空気、ぴしっとするよね」
「そりゃあね。……莉子様、資料の差し替え、これで全部?」
「ええ。四部、製本済み。先に会議室へ運ぶわ」
私が微笑むと、同僚は安心したように頷いた。
分厚い資料の重みが掌に伝わる。廊下の先、ガラス張りの会議室の向こうで、黒いスーツの背中が見えた。
悠真。
視線は一瞬だけ触れて、すぐ外れた。彼も気づいたはずだが、こちらを見ない。黒曜石みたいな冷たい横顔は、会議の前の緊張でさらに輪郭が硬く見える。
私は何もなかった顔で会議室に入り、着席者の前に資料を置いて回る。
最後の一冊を彼の前に置いたとき、指先が紙の端でほんの少し触れた。
彼は表情を変えない。私も同じ。紙と紙が擦れるような、無音のやり取り。
会議は予定通り、正確に始まった。
プロジェクタに投影されるグラフの線が光を帯びて伸び、要点だけを切り取る低い声が室内を満たす。
“冷徹”と評される副社長の説明は、刃物のように余分がない。
たとえば、誰かが曖昧な言い回しをしても、彼の問いは的確に核心へ届く。
「その“柔軟な対応”の具体は? 数で示せますか」
短い沈黙。相手の喉が小さく鳴る音。
私は視線をノートに落とし、必要なページに付箋を貼る。指先は滑らかに動き、心だけが置き去りにされる。
――忘れたふり。
この速度、この密度の中に身を置くと、むしろ簡単になってしまう。目の前の事実だけを追いかけて、感情を削り落とす。
会議が終わったのは、針がぴたりと正午を指すころだった。
退出する幹部たちに軽く会釈し、残りの資料を回収する。
ドアが閉まれば、部屋は一気に静かになる。プロジェクタの余熱でわずかに空気が温い。
「――莉子」
名を呼ばれて振り向くと、彼がいた。
距離はテーブル一つ。近いのに、遠い。彼の黒い瞳は、光を映さない。
「今の第三セグメント、リスク想定の項、追加で詰める。君に任せる」
「承知しました。午後一でドラフトを」
「いや、夕刻まででいい。代わりに先方の若手役員には俺が直接話す」
彼がわずかに顎を引き、ガラスの外を示す。
視線の先――廊下で待っていたのは、先日の会議でやけに私に話しかけてきた若手役員だった。
彼は手に小さな紙袋を提げ、こちらに向かっておずおずと近づいてくる。
「あの、先日はありがとうございました。これ、よろしければ」
差し出されたのは焼き菓子の詰め合わせ。丁寧な包装紙。
私は一秒だけ迷い、口角を上げる。
「お気持ちだけで十分です。お気遣いありがとうございます」
受け取らないまま頭を下げたその瞬間、横で衣擦れの音がした。
悠真が一歩、こちらへ進む。声は柔らかくないが、礼を外さない温度で。
「ご配慮に感謝します。ですが、社内では私的な贈答はご遠慮いただいています。――以後は業務で」
若手役員の笑顔が固まり、困惑が滲む。
私は慌てて空気を和らげるように微笑んだ。
「お気持ちは届いていますから。今日はこれで」
彼が引き下がり、紙袋を抱え直して遠ざかる。
足音が消えるまで、室内の温度はわずかに低いままだった。
「……言わなければ伝わらないことは、先に伝える」
彼がテーブルに視線を落としたまま低く言った。
その声音は、業務の規律を守るためのもの――のはずなのに、胸の奥に別の色を落としていく。
「誤解を生みやすい状況は排除する。それだけだ」
私は息を整え、静かに頷く。
そんな彼の横顔を、斜めから見る。まつげの影が頬に落ち、光に濡れた輪郭が一瞬だけ幼い頃の面影を連れてくる。
――だめ。
忘れたふり。掬い上げる前に、指の隙間から零してしまわなければ。
「午後のドラフト、要点を共有しておきます」
「聞こう」
私は要点を簡潔に述べ、彼は一言ずつ必要な修正を差し入れる。言葉は短く、的確で、冷たい。
けれど、ときどき、呼吸の端が揺れるのを私は知っている。私の声が近づいたとき、ほんのわずかに視線が逸れることも。
それでも、何も言わない。言えない。
私が“忘れたふり”を選ぶ限り、彼はきっと“冷徹”を選び続ける。
昼過ぎ、役員フロアの廊下は人影が薄くなる。
私はコピー室で資料の差し替えをしていた。
紙の束を揃える音、ホチキスの金属音、トナーの微かな匂い。規則正しい音に心が落ち着いていく。
――そこへ、影が差した。
「その第二案、三頁目の脚注。数字が古い」
振り向くまでもなく、声でわかる。
彼は資料を手に取り、ページをめくった。指の動きは速いのに、乱雑ではない。
「最新の監査報告に差し替えます」
「頼む」
短く応じ、彼は私の手から別の束を取った。
紙と紙が擦れ、小さな音が重なる。二人で作業を進めているだけなのに、胸のあたりがやけに忙しい。
「……今朝の、あれ。悪かったな」
唐突に落ちた声に、手が止まる。
“あれ”。先ほどの贈答の件だろうか、それとも――。
「規律のためです。問題ありません」
私が淡々と答えると、彼は一拍置いて、ほんの少しだけ目を細めた。
「そうだな」
それきり、また紙の音だけが続いた。
同じ空間にいることに慣れていくほどに、慣れないものが増えていく。
鼻先をかすめる彼の洗濯洗剤の匂い、袖口にかかる光、横顔の癖。
忘れたふり。忘れたふり。
束ね終えた資料を両手で揃え、私は胸の前で軽く叩いた。
吸い込んだ息をそっと吐き出す。雨の匂いはしない。ここは、乾いた紙の匂いだけ。
夕刻、先方が来社した。
ガラスのドアが開き、昼の若手役員とは別の、落ち着いた雰囲気の担当者が現れる。
応接室へ案内し、茶器を整え、名刺を交換する。
定型を積み重ねるうちに、心もまた定型に沿って動き出す。
そこへ、扉がノックもなく開いた。
悠真だ。
相手に向かって簡潔に会釈し、席に着く。空気が一段引き締まる。
「本日は、お時間ありがとうございます。――先にお伝えしておきますが、こちらの社内では贈答はお受けしていません。以後はお気遣いなく」
担当者は一瞬だけ戸惑い、すぐに理解したように笑った。
「承知しました。弊社もその方針です。先の件は若い者が出過ぎた行動を。今後は気をつけます」
やわらかい応対。
私は胸の奥で小さく息をついた。
彼が“冷徹”であることが、いつも必ずしも正解になるわけではない。けれど、今日のそれは、私を守る楯にもなった。
打ち合わせは穏やかに進み、必要な確認事項はすべて片づいた。
見送りのため廊下へ出ると、窓の外ににわか雨の跡が見えた。乾きかけのアスファルトが、薄い銀色に光っている。
「では、失礼します。――社長令嬢様」
軽口めいた呼びかけに、私は苦笑で返す。
「肩書は飾りです。お足元、お気をつけて」
扉が閉まり、静けさが戻る。
ふと横を見ると、悠真がこちらを見ていた。
瞳の底は冷たい。でも、その縁で、何かがかすかに揺れている。
私は視線を受け止め、そして――言った。
「心配いりません。必要なことだけ、きちんとします」
彼の瞳が一瞬だけ揺れ、すぐ冷たさを取り戻した。
「……そうか」
それだけ。
彼は踵を返し、歩き去る。
足音が角を曲がって消えたあと、私は手のひらを見つめた。
爪の先に、さっきまでの紙の感触が残っている。白い、乾いた、無数の繊維。
忘れたふりは、案外うまくやれている――はずだ。
でも、胸の奥のどこかで、今日の“揺れ”を何度も再生してしまう。
一瞬だけだった。ほんの一瞬。
それでも確かに、あの黒い瞳は揺れた。
――雨の匂いがする。
窓の外、薄曇りの空が街の光を鈍く反射している。
幼い日の庭に降った雨と、今ここに残るかすかな湿り気が、一筋の線で結ばれそうになる。
だめ。
私は首を横に振り、名札の角を指でなぞる。
肩書は飾り――と言ったのは私自身だ。飾りなら、飾りとしてふるまえる。
忘れたふりは、今日もきっと、私を守ってくれる。
そう言い聞かせて、私は机に戻った。
夕刻のフロアはゆっくりと暗くなり、天井灯が白く灯る。
キーボードの微かな打鍵音が幾筋も重なり、どこかで湯気の立つ紙コップが置かれる音がした。
ページを繰る指が止まらない。
感情の置き場所は、今日も空欄のまま。
空欄であることを、誰にも悟らせないように。
忘れたふり。
それは、私の今日と、明日への鍵。
止まるたびに開くドアから、革靴の音と香水の気配が流れ込む。私は胸の前でファイルを抱え、深く息を吸う。吸い込んだ空気に、ほんの微かな雨の残り香が混じっている気がした。
――雨。
思い出しそうになった記憶を、指先に力を込めて押し留める。忘れたふり。今日もそれでいい。
役員フロアに着くと、フロア全体の空気が少しだけ硬いのがわかった。昨日と同じ、いや、昨日よりも。
同僚がささやく。
「副社長、朝一で海外案件のレビューだって。空気、ぴしっとするよね」
「そりゃあね。……莉子様、資料の差し替え、これで全部?」
「ええ。四部、製本済み。先に会議室へ運ぶわ」
私が微笑むと、同僚は安心したように頷いた。
分厚い資料の重みが掌に伝わる。廊下の先、ガラス張りの会議室の向こうで、黒いスーツの背中が見えた。
悠真。
視線は一瞬だけ触れて、すぐ外れた。彼も気づいたはずだが、こちらを見ない。黒曜石みたいな冷たい横顔は、会議の前の緊張でさらに輪郭が硬く見える。
私は何もなかった顔で会議室に入り、着席者の前に資料を置いて回る。
最後の一冊を彼の前に置いたとき、指先が紙の端でほんの少し触れた。
彼は表情を変えない。私も同じ。紙と紙が擦れるような、無音のやり取り。
会議は予定通り、正確に始まった。
プロジェクタに投影されるグラフの線が光を帯びて伸び、要点だけを切り取る低い声が室内を満たす。
“冷徹”と評される副社長の説明は、刃物のように余分がない。
たとえば、誰かが曖昧な言い回しをしても、彼の問いは的確に核心へ届く。
「その“柔軟な対応”の具体は? 数で示せますか」
短い沈黙。相手の喉が小さく鳴る音。
私は視線をノートに落とし、必要なページに付箋を貼る。指先は滑らかに動き、心だけが置き去りにされる。
――忘れたふり。
この速度、この密度の中に身を置くと、むしろ簡単になってしまう。目の前の事実だけを追いかけて、感情を削り落とす。
会議が終わったのは、針がぴたりと正午を指すころだった。
退出する幹部たちに軽く会釈し、残りの資料を回収する。
ドアが閉まれば、部屋は一気に静かになる。プロジェクタの余熱でわずかに空気が温い。
「――莉子」
名を呼ばれて振り向くと、彼がいた。
距離はテーブル一つ。近いのに、遠い。彼の黒い瞳は、光を映さない。
「今の第三セグメント、リスク想定の項、追加で詰める。君に任せる」
「承知しました。午後一でドラフトを」
「いや、夕刻まででいい。代わりに先方の若手役員には俺が直接話す」
彼がわずかに顎を引き、ガラスの外を示す。
視線の先――廊下で待っていたのは、先日の会議でやけに私に話しかけてきた若手役員だった。
彼は手に小さな紙袋を提げ、こちらに向かっておずおずと近づいてくる。
「あの、先日はありがとうございました。これ、よろしければ」
差し出されたのは焼き菓子の詰め合わせ。丁寧な包装紙。
私は一秒だけ迷い、口角を上げる。
「お気持ちだけで十分です。お気遣いありがとうございます」
受け取らないまま頭を下げたその瞬間、横で衣擦れの音がした。
悠真が一歩、こちらへ進む。声は柔らかくないが、礼を外さない温度で。
「ご配慮に感謝します。ですが、社内では私的な贈答はご遠慮いただいています。――以後は業務で」
若手役員の笑顔が固まり、困惑が滲む。
私は慌てて空気を和らげるように微笑んだ。
「お気持ちは届いていますから。今日はこれで」
彼が引き下がり、紙袋を抱え直して遠ざかる。
足音が消えるまで、室内の温度はわずかに低いままだった。
「……言わなければ伝わらないことは、先に伝える」
彼がテーブルに視線を落としたまま低く言った。
その声音は、業務の規律を守るためのもの――のはずなのに、胸の奥に別の色を落としていく。
「誤解を生みやすい状況は排除する。それだけだ」
私は息を整え、静かに頷く。
そんな彼の横顔を、斜めから見る。まつげの影が頬に落ち、光に濡れた輪郭が一瞬だけ幼い頃の面影を連れてくる。
――だめ。
忘れたふり。掬い上げる前に、指の隙間から零してしまわなければ。
「午後のドラフト、要点を共有しておきます」
「聞こう」
私は要点を簡潔に述べ、彼は一言ずつ必要な修正を差し入れる。言葉は短く、的確で、冷たい。
けれど、ときどき、呼吸の端が揺れるのを私は知っている。私の声が近づいたとき、ほんのわずかに視線が逸れることも。
それでも、何も言わない。言えない。
私が“忘れたふり”を選ぶ限り、彼はきっと“冷徹”を選び続ける。
昼過ぎ、役員フロアの廊下は人影が薄くなる。
私はコピー室で資料の差し替えをしていた。
紙の束を揃える音、ホチキスの金属音、トナーの微かな匂い。規則正しい音に心が落ち着いていく。
――そこへ、影が差した。
「その第二案、三頁目の脚注。数字が古い」
振り向くまでもなく、声でわかる。
彼は資料を手に取り、ページをめくった。指の動きは速いのに、乱雑ではない。
「最新の監査報告に差し替えます」
「頼む」
短く応じ、彼は私の手から別の束を取った。
紙と紙が擦れ、小さな音が重なる。二人で作業を進めているだけなのに、胸のあたりがやけに忙しい。
「……今朝の、あれ。悪かったな」
唐突に落ちた声に、手が止まる。
“あれ”。先ほどの贈答の件だろうか、それとも――。
「規律のためです。問題ありません」
私が淡々と答えると、彼は一拍置いて、ほんの少しだけ目を細めた。
「そうだな」
それきり、また紙の音だけが続いた。
同じ空間にいることに慣れていくほどに、慣れないものが増えていく。
鼻先をかすめる彼の洗濯洗剤の匂い、袖口にかかる光、横顔の癖。
忘れたふり。忘れたふり。
束ね終えた資料を両手で揃え、私は胸の前で軽く叩いた。
吸い込んだ息をそっと吐き出す。雨の匂いはしない。ここは、乾いた紙の匂いだけ。
夕刻、先方が来社した。
ガラスのドアが開き、昼の若手役員とは別の、落ち着いた雰囲気の担当者が現れる。
応接室へ案内し、茶器を整え、名刺を交換する。
定型を積み重ねるうちに、心もまた定型に沿って動き出す。
そこへ、扉がノックもなく開いた。
悠真だ。
相手に向かって簡潔に会釈し、席に着く。空気が一段引き締まる。
「本日は、お時間ありがとうございます。――先にお伝えしておきますが、こちらの社内では贈答はお受けしていません。以後はお気遣いなく」
担当者は一瞬だけ戸惑い、すぐに理解したように笑った。
「承知しました。弊社もその方針です。先の件は若い者が出過ぎた行動を。今後は気をつけます」
やわらかい応対。
私は胸の奥で小さく息をついた。
彼が“冷徹”であることが、いつも必ずしも正解になるわけではない。けれど、今日のそれは、私を守る楯にもなった。
打ち合わせは穏やかに進み、必要な確認事項はすべて片づいた。
見送りのため廊下へ出ると、窓の外ににわか雨の跡が見えた。乾きかけのアスファルトが、薄い銀色に光っている。
「では、失礼します。――社長令嬢様」
軽口めいた呼びかけに、私は苦笑で返す。
「肩書は飾りです。お足元、お気をつけて」
扉が閉まり、静けさが戻る。
ふと横を見ると、悠真がこちらを見ていた。
瞳の底は冷たい。でも、その縁で、何かがかすかに揺れている。
私は視線を受け止め、そして――言った。
「心配いりません。必要なことだけ、きちんとします」
彼の瞳が一瞬だけ揺れ、すぐ冷たさを取り戻した。
「……そうか」
それだけ。
彼は踵を返し、歩き去る。
足音が角を曲がって消えたあと、私は手のひらを見つめた。
爪の先に、さっきまでの紙の感触が残っている。白い、乾いた、無数の繊維。
忘れたふりは、案外うまくやれている――はずだ。
でも、胸の奥のどこかで、今日の“揺れ”を何度も再生してしまう。
一瞬だけだった。ほんの一瞬。
それでも確かに、あの黒い瞳は揺れた。
――雨の匂いがする。
窓の外、薄曇りの空が街の光を鈍く反射している。
幼い日の庭に降った雨と、今ここに残るかすかな湿り気が、一筋の線で結ばれそうになる。
だめ。
私は首を横に振り、名札の角を指でなぞる。
肩書は飾り――と言ったのは私自身だ。飾りなら、飾りとしてふるまえる。
忘れたふりは、今日もきっと、私を守ってくれる。
そう言い聞かせて、私は机に戻った。
夕刻のフロアはゆっくりと暗くなり、天井灯が白く灯る。
キーボードの微かな打鍵音が幾筋も重なり、どこかで湯気の立つ紙コップが置かれる音がした。
ページを繰る指が止まらない。
感情の置き場所は、今日も空欄のまま。
空欄であることを、誰にも悟らせないように。
忘れたふり。
それは、私の今日と、明日への鍵。