忘れた初恋

第四章「業務のはじまり」

 朝の会議室は、まだ機械の温もりが残っているだけで静かだった。
 ブラインドの隙間から差す光が、テーブルの木目を薄い帯に区切る。私は資料の角を揃え、ホワイトボードに今日の流れを箇条書きで記した。

「——現状分析/課題抽出/施策案の優先度」

 ドアが開き、革靴の音がひとつ。
 悠真が入ってきた。黒いジャケットの裾を整え、私の書いたボードを一瞥する。

「時間通りだな」

「はい。関連資料は各部四部ずつ。フィールドヒアリングの候補者リストも用意しました」

「見せてくれ」

 渡した紙を、彼は立ったままめくる。視線は速いのに乱れない。
 指先が止まったのは、現場担当・秋庭という名の上だった。

「この人選の理由は」

「数字に出ない“現場の勘”を一番言語化できる人です。記録の癖が丁寧で、前回の改善サイクルも回している」

「——いい。午後、同席する」

 短い返事。私の胸の奥で、小さな音が弾けた。
 同席。それはつまり、今日の“業務のはじまり”の一歩を彼と同じ速度で歩くということ。

 他部署のメンバーが揃い、会議が始まる。
 私は進行役としてテンポを刻み、各担当から現状を引き出していく。数字は数字として、しかし人の温度も落とさないように。

「課題は“遅延”です。原因は三つに分かれます」
 私はボードに、矢印を三本引いた。
「——承認の滞留、仕様変更の頻発、そして“誰にも書かれていない手順”」

 室内がわずかにざわつく。“誰にも書かれていない手順”。
 現場が長年の勘で繋いできた暗黙知。そこがボトルネックになっている。

「そこは数にしづらい」誰かが言う。
 私は頷き、ぺん、とペン先でボードの端を軽く叩いた。

「だからこそ、ヒアリングを回して見える化します。工程を粒度で割って、時間と難度でマッピング。——表層の遅延と、根にある遅延を分ける」

 視線の端で、悠真が腕を組むのが見えた。
 そして低く、しかしよく通る声が落ちる。

「マッピングだけでは“正しさ”が担保できない。主観の断片を線で繋げば、きれいな嘘ができる」

 会議室の空気がぴん、と張る。
 私は彼をまっすぐ見た。

「——だから、二重化します。ヒアリングと、現場の“その場の所作”の並走観察。言葉と動きを、同じシートで重ねる」

 静かな沈黙。
 次の瞬間、彼はわずかに顎を引き、短く言った。

「やれ」

 会議は再び流れ出し、各部署に小さな宿題が割り振られていく。
 終わったころには、午前の光が少し角度を変えていた。



 昼のフロアは、いつもよりわずかにざわついていた。
 新しいプロジェクトが動き出すときの、良い緊張。私は紙袋から簡単なサンドイッチを取り出し、給湯スペースの片隅で一口齧る。

 ステンレスの受け台に、紙コップが二つ並ぶ。
 ひとつにコーヒー、もうひとつにただのお湯。
 ふ、と笑ってしまいそうになる。子どもの頃、雨の庭で湯気を指で掴もうとした記憶が、唐突によみがえったからだ。

「昼は、立ったままか」

 振り向けば、悠真がいた。
 驚きは見せない。紙コップを一つ手に取り、ブラックのコーヒーを口へ運ぶ。

「席がいっぱいで」

「いつも端を選ぶな」

「落ち着くので」

 短い会話がそこに落ちて、溶けた。
 彼は何も言わず、カップを置く。手が離れる瞬間、薄い蒸気がゆらぎ、光に透ける。

「午後の秋庭さん、予定通り会議室Cです」
「分かった。……それと」

 彼は目を伏せ、ひと呼吸置いた。

「君の進行は、無駄がない」

 胸が一瞬だけ熱くなる。
 けれど、私はうなずくだけに留めた。

「ありがとうございます。必要なことだけ、きちんとします」

 彼の視線が、かすかに揺れて、すぐ戻る。
 紙コップが静かな音を立て、元の位置に戻された。



 午後。会議室C。
 現場担当の秋庭が入ってくる。素朴な紺の作業着に、磨かれた作業靴。
 私は笑顔で迎え、録音機材を見せる代わりに、白紙のシートを差し出した。

「ここに、秋庭さんの“癖”を書いてください。良い癖も、面倒な癖も。言葉で言いづらければ、描いてもらっても」

 秋庭は目を丸くし、それからおかしそうに笑った。
「癖、ねえ。……俺の、ですか」

「ええ。工程の“間(ま)”で、何を感じるかも」

「間?」

 私は自分のペンで、シートに小さな四角をいくつも描く。
 四角と四角のあいだに、わずかな余白。

「ここが“間”。数字に出ない、でも毎回起きる“待ち”や“確かめ直し”。——それが遅延を連れてくる」

「へえ」

 秋庭の目が、少しずつ楽しげに細くなっていく。
 私は質問を投げ、秋庭は“手”で答える。ボールペンの動きが、ことば以上に雄弁だ。

 そのやり取りを、悠真は黙って見ていた。
 眼差しは冷たいままなのに、視線の動きだけが忙しい。私のペン先、秋庭の指、描かれていく四角の間。

「——確認だ」

 タイミングを見計らったように、彼が口を開いた。
「“間”の発生は、技能ではなく制度に由来する可能性がある。技能者の矜持を傷つけずに制度の不備を指し示す言い方は?」

 秋庭が一瞬たじろぐ。
 私はその“間”を受け、言葉を選んで置いた。

「“悪いのは人ではなく、場所です”——で、どうでしょう。
 人の癖に寄り添って、置き場所や順番を変える。“場所替え”の提案にすれば、手を否定しない」

 室内の空気がやわらいだ。秋庭の肩から、わずかな力が抜けるのが見える。

「なるほどねえ。……場所替え、か」

 ヒアリングは予定よりもすこし長引き、けれど実のある“線”がシートに増えていった。
 終わる頃には、白紙だった紙は、小さな四角と矢印で埋め尽くされている。

「助かったよ、嬢ちゃん。いや、嬢ちゃんじゃなくて——」

「莉子でお願いします」

「莉子さん。いい名前だ」

 秋庭が笑い、退出する。
 ドアが静かに閉まったあと、部屋に静けさが戻った。
 私は深く息を吐き、シートを軽くたたんで揃える。

「……やるな」

 不意に落ちた声。
 悠真が、ボードの前に立っていた。白い余白に、彼が一本だけ縦の線を引く。

「“間”を見える化した。数字の裏にある、もう一つの座標軸だ」

「ありがとうございます。——でも、あなたが最初に言った通りです。主観の線は、きれいな嘘にもなる」

「だから、重ねる」

 彼は、先ほどのシートを指先で軽く叩いた。
 紙が、低く、乾いた音を返す。

「言葉の線、動きの線、時間の線。三層で重なれば、嘘は目立つ」

 私は頷いた。
 そのとき、窓の外で小さく音がした。
 ガラスに薄い水の輪——通り雨だ。

 肌の内側が、わずかにざわめく。
 雨の記憶が、遠くから呼ばれる。

「——明日、現場に入る。君も来い」

 悠真の声が、雨音を断つ。
 私は瞬きをひとつして、彼を見る。

「承知しました」

「服装は動きやすく。ヒールはやめろ」

「分かっています」

 短い応酬。
 彼の瞳が、ほんの一瞬だけ柔らいだ——気がした。
 すぐに冷たい光へ戻る。いつものように。



 夕刻、資料をまとめて席に戻ると、デスクの端に小さな透明袋が置かれていた。
 薄い色のハンドクリーム。
 付箋に、雑な字。

《紙で手を切るな》

 私は目を瞬かせ、周囲を見回す。誰もこちらを見ていない。
 付箋の角が、わずかに曲がっている。
 息を整え、引き出しにそっとしまった。

 ——必要なことだけ、きちんとする。
 それは仕事の言葉。けれど、今日だけは、胸の奥でもう一度唱えた。

 通り雨はもう上がっている。
 ガラスの向こう、濡れた街が薄く光り、匂いだけが遅れて届く。
 “業務のはじまり”は、静かに、しかし確かに動き出した。

 私は席を立ち、ボードの前に立つ。
 縦に一本、線を足した。
 小さな、しかし次に繋がる印。
 明日は現場。
 雨の記憶に触れずに済むように、フラットな靴で行こうと思った。
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