忘れた初恋
第五章「すれ違う視線」
ホテルの大広間は、夜の帳を照明と音楽で塗り替えられていた。
高い天井には幾重ものシャンデリア、金糸を織り込んだカーテンが揺れるたび、光が粒のように零れる。
グラスを持つ人々の笑い声と、楽団の軽やかな演奏が重なり、社交界ならではの華やかさを作り上げていた。
私は淡いブルーグレーのドレスに身を包み、父と並んで招待客と挨拶を交わしていた。
幼いころから慣れてきた光景――なのに、今夜は落ち着かない。
視線を感じるたび、胸がざわめくのはきっと、悠真が同じ会場にいるからだ。
「莉子様、本当にお美しいですね」
「ぜひ今度、我が家の別荘にもお越しください」
笑顔を浮かべて応じると、相手の視線が熱を帯びる。
ドレスの裾を軽く揺らしながら、一礼する。
そんな私の周囲に、気づけば三人ほどの青年が集まっていた。
「お酒をお持ちしましょうか」
「いや、俺が」
「莉子様、少し踊りませんか?」
競うように差し伸べられる手。
笑いながら断ろうとしたとき――背後から低い声が割って入った。
「彼女は、予定がある」
場の空気が凍りついた。
悠真だった。
黒のタキシードに身を包み、背の高さと冷ややかな存在感で、その場の視線を一身に集める。
鋭い眼差しは、私に群がる青年たちを順に射抜いた。
「……副社長」
一人が気まずそうに笑いを浮かべる。
「ええと、少しお話を――」
「君たちの軽い誘いで、彼女の時間を浪費させるわけにはいかない」
淡々とした口調なのに、言葉は鋭かった。
青年たちは押し黙り、互いに顔を見合わせ、苦笑いを浮かべながら退いていく。
残された私は、グラスを持つ指に力を込めた。
「……悠真さん」
「社交界は、時に浅い好奇心で成り立つ。だが、君は社長令嬢だ。軽々しく応じるべきではない」
「私は……」
何か言おうとして、喉が詰まる。
けれど、彼の視線は私を縛るように鋭く、言葉を飲み込ませる。
周囲の人々は気を利かせて距離を取り、私と彼だけが残された。
楽団の演奏がかえって遠くに感じられる。
「……助けてくれたの?」
小声で問うと、彼の眉が僅かに動いた。
「助けた? 違う」
短く切り捨てる。
だが、その声にはわずかに熱が混じっていた。
「彼らの視線に、君が微笑み返すのを見て……不愉快だった」
言葉が胸に突き刺さる。
息が詰まり、心臓が痛いほど高鳴る。
嫉妬――そうとしか言えない感情が、彼の言葉に露わになっていた。
「……どうして、そんなことを」
「理由がいるのか?」
彼の指が、私のグラスを奪い取るように持ち上げる。
テーブルに置かれたとき、澄んだ音が乾いた空気を裂いた。
「君は、誰のものだ?」
問いかけに、喉が震える。
答えられない。
けれど、彼の黒い瞳は返事を待つように、強く私を捕えていた。
――私はただの“社長令嬢”。
そして彼は、“副社長”。
立場を思えば、この問いに答えなどない。
「……失礼します」
私は裾を持ち上げて、踵を返した。
背後に残る気配は、冷たさと熱を同時に含んでいて、振り返ることができなかった。
高い天井には幾重ものシャンデリア、金糸を織り込んだカーテンが揺れるたび、光が粒のように零れる。
グラスを持つ人々の笑い声と、楽団の軽やかな演奏が重なり、社交界ならではの華やかさを作り上げていた。
私は淡いブルーグレーのドレスに身を包み、父と並んで招待客と挨拶を交わしていた。
幼いころから慣れてきた光景――なのに、今夜は落ち着かない。
視線を感じるたび、胸がざわめくのはきっと、悠真が同じ会場にいるからだ。
「莉子様、本当にお美しいですね」
「ぜひ今度、我が家の別荘にもお越しください」
笑顔を浮かべて応じると、相手の視線が熱を帯びる。
ドレスの裾を軽く揺らしながら、一礼する。
そんな私の周囲に、気づけば三人ほどの青年が集まっていた。
「お酒をお持ちしましょうか」
「いや、俺が」
「莉子様、少し踊りませんか?」
競うように差し伸べられる手。
笑いながら断ろうとしたとき――背後から低い声が割って入った。
「彼女は、予定がある」
場の空気が凍りついた。
悠真だった。
黒のタキシードに身を包み、背の高さと冷ややかな存在感で、その場の視線を一身に集める。
鋭い眼差しは、私に群がる青年たちを順に射抜いた。
「……副社長」
一人が気まずそうに笑いを浮かべる。
「ええと、少しお話を――」
「君たちの軽い誘いで、彼女の時間を浪費させるわけにはいかない」
淡々とした口調なのに、言葉は鋭かった。
青年たちは押し黙り、互いに顔を見合わせ、苦笑いを浮かべながら退いていく。
残された私は、グラスを持つ指に力を込めた。
「……悠真さん」
「社交界は、時に浅い好奇心で成り立つ。だが、君は社長令嬢だ。軽々しく応じるべきではない」
「私は……」
何か言おうとして、喉が詰まる。
けれど、彼の視線は私を縛るように鋭く、言葉を飲み込ませる。
周囲の人々は気を利かせて距離を取り、私と彼だけが残された。
楽団の演奏がかえって遠くに感じられる。
「……助けてくれたの?」
小声で問うと、彼の眉が僅かに動いた。
「助けた? 違う」
短く切り捨てる。
だが、その声にはわずかに熱が混じっていた。
「彼らの視線に、君が微笑み返すのを見て……不愉快だった」
言葉が胸に突き刺さる。
息が詰まり、心臓が痛いほど高鳴る。
嫉妬――そうとしか言えない感情が、彼の言葉に露わになっていた。
「……どうして、そんなことを」
「理由がいるのか?」
彼の指が、私のグラスを奪い取るように持ち上げる。
テーブルに置かれたとき、澄んだ音が乾いた空気を裂いた。
「君は、誰のものだ?」
問いかけに、喉が震える。
答えられない。
けれど、彼の黒い瞳は返事を待つように、強く私を捕えていた。
――私はただの“社長令嬢”。
そして彼は、“副社長”。
立場を思えば、この問いに答えなどない。
「……失礼します」
私は裾を持ち上げて、踵を返した。
背後に残る気配は、冷たさと熱を同時に含んでいて、振り返ることができなかった。