忘れた初恋

第六章「視線の交差」


 パーティーの夜から一日が経った。
 けれど、胸の奥に残る熱はまだ冷めていなかった。
 あのときの悠真の言葉――
 「君は、誰のものだ?」
 冷たい眼差しの奥に覗いた強い感情は、どう考えてもただの「副社長」と「社長令嬢」の距離感ではなかった。

 ……でも。
 それを嫉妬だと断じるには、怖かった。
 私の初恋を知ってしまうことが、何よりも怖かった。



 翌日の午後。
 私は本社ビルの会議室で、各部署から集まった資料を整理していた。
 窓から差し込む光が、ホワイトボードに反射して白く眩しい。
 分厚い資料を両手で抱え込んだ瞬間、ドアが開いた。

「そのまま置け。俺が見る」

 悠真だった。
 黒のスーツに身を包んだ姿は、昨日のパーティーの煌めきとは正反対で、ただ冷徹な副社長の顔をしていた。
 私の胸は一瞬だけ疼き、けれど彼に悟られぬよう、微笑を形だけ作った。

「昨日は……お疲れさまでした」
「社交界の雑音は時間の無駄だ。君もそう思うだろう?」

 抑揚のない声。
 その言葉に胸が少しだけ痛む。
 私が「雑音」の中で微笑んでいたことを、彼は見ていたのだ。

「雑音でも、立場上は必要ですから」
「必要なら、俺が処理する」

 その言葉に思わず彼を見つめてしまう。
 強い瞳。
 けれど、その奥にほんの一瞬だけ影のようなものが揺れた。

 昨日の夜と同じだ。
 視線が交差するだけで、心臓が暴れる。

「悠真さんは……どうして、あんなことを?」
 勇気を振り絞って口にした。

「何を指している」
「……“君は誰のものだ”って」

 一瞬、彼の目が鋭さを帯びる。
 けれど、すぐに冷たい光へ戻った。

「言葉の綾だ。社交界での不用意な誘いに釘を刺しただけだ」

 ――そう、片づけられてしまうの?
 胸がぎゅっと痛み、喉が詰まる。

「私は……誰のものでもありません」
 絞り出した声は震えていた。

 悠真は一歩近づき、低い声で言った。
「その言葉を、誰にでも向けるな」

「え……?」

「俺以外に、そんな視線を向けるな」

 吐き出すような言葉に、心臓が跳ねた。
 でも、次の瞬間、彼はふっと視線を逸らす。

「……会議に遅れる。準備を整えておけ」

 踵を返し、ドアの向こうへ消えていく背中。
 残された私は、胸に両手を当て、乱れる鼓動を必死で抑えた。

 ――結局、何も言えない。
 視線が交わるたびに心は揺れるのに、言葉はすれ違う。

 冷徹な副社長と、社交界の花。
 互いの立場と誤解が、またひとつ厚い壁を作ってしまった。
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