忘れた初恋
第七章「揺れる心」
翌朝の光はやわらかく、ビルのガラスに反射して街全体を白く包み込んでいた。
けれど私の心は、昨夜からずっと落ち着かない。
「俺以外に、そんな視線を向けるな」
会議室での悠真の言葉が、何度も反複される。
あれは嫉妬だったのだろうか。
それとも、社長令嬢としての立場を守るための忠告にすぎないのか。
答えは出ない。けれど胸の鼓動は、真実を知りたがっている。
午前の会議を終え、私は廊下を歩いていた。
社員の視線が自然と集まる。社長令嬢であり、経営陣の一員としての存在感――それが彼らの目に映るのだろう。
「莉子様、お手伝いしましょうか」
「次の会議資料、私が運びますよ」
若手社員が笑顔で声をかけてくる。
私はやわらかく微笑み、首を振った。
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
そのやりとりの最中、背後に冷たい空気が流れ込んだ。
「君たち、持ち場に戻れ」
低く響く声。悠真だった。
若手社員たちは慌てて頭を下げ、蜘蛛の子を散らすように去っていく。
「……悠真さん」
「お前は、無防備すぎる」
厳しい言葉。けれど、その瞳はわずかに陰を帯びていた。
それはただの上司としての指摘ではない。胸の奥が、そう告げている。
午後。
私は父に同行し、外部の懇親会に出席していた。
会場はビルの高層階にあるレストラン。窓一面に広がる街並みが、夕暮れに溶けていく。
「莉子さん、こちらへ」
「ぜひ乾杯をご一緒に」
グラスを掲げられ、私は丁寧に応じる。
談笑の輪が広がるたび、私の周囲には自然と人だかりができていく。
――社交界の花。
そう呼ばれることに慣れてきたはずなのに、今夜は居心地の悪さを覚えた。
なぜなら、その輪の外で、悠真が静かにこちらを見ていたから。
黒い瞳は冷ややかで、まるで氷のように固まっている。
その視線が、胸を焼く。
「莉子様、次の舞踏会にもぜひいらして。パートナーがまだ決まっていないなら……」
「ええ、考えておきますわ」
笑顔を浮かべて答えた瞬間、背後から鋭い声が響いた。
「彼女の予定は、すでに決まっている」
振り返れば、悠真が立っていた。
グラスを手にしているのに、一滴の揺らぎもない。
場にいた人々が一斉に息を呑む。
「副社長……」
「彼女は社長令嬢だ。無分別な誘いで時間を奪うのは控えていただきたい」
静かなのに、圧倒的な威圧感。
周囲の男性たちは次々と口を閉ざし、散っていく。
残された私は、胸が熱くなった。
「……どうして、そんなに」
「どうして、とは?」
「私が誰と話していても……いつも遮るでしょう」
問いかけに、彼はわずかに目を細めた。
「君が……笑うからだ」
「え?」
「誰にでも、同じ笑顔を向ける。それが――気に入らない」
心臓が跳ねる。
言葉の裏に隠された感情を、もうごまかすことはできなかった。
けれど――。
その直後、彼は表情を引き締め、背を向けた。
「誤解するな。俺は副社長として、君の立場を守っているだけだ」
冷たい背中。
でも、さっきの言葉は確かに本心だった。
私は震える指先を胸にあて、必死に呼吸を整えた。
――揺れる。
彼の言葉に、態度に、視線に。
心は何度も揺さぶられ、忘れたふりができなくなっていく。
けれど私の心は、昨夜からずっと落ち着かない。
「俺以外に、そんな視線を向けるな」
会議室での悠真の言葉が、何度も反複される。
あれは嫉妬だったのだろうか。
それとも、社長令嬢としての立場を守るための忠告にすぎないのか。
答えは出ない。けれど胸の鼓動は、真実を知りたがっている。
午前の会議を終え、私は廊下を歩いていた。
社員の視線が自然と集まる。社長令嬢であり、経営陣の一員としての存在感――それが彼らの目に映るのだろう。
「莉子様、お手伝いしましょうか」
「次の会議資料、私が運びますよ」
若手社員が笑顔で声をかけてくる。
私はやわらかく微笑み、首を振った。
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
そのやりとりの最中、背後に冷たい空気が流れ込んだ。
「君たち、持ち場に戻れ」
低く響く声。悠真だった。
若手社員たちは慌てて頭を下げ、蜘蛛の子を散らすように去っていく。
「……悠真さん」
「お前は、無防備すぎる」
厳しい言葉。けれど、その瞳はわずかに陰を帯びていた。
それはただの上司としての指摘ではない。胸の奥が、そう告げている。
午後。
私は父に同行し、外部の懇親会に出席していた。
会場はビルの高層階にあるレストラン。窓一面に広がる街並みが、夕暮れに溶けていく。
「莉子さん、こちらへ」
「ぜひ乾杯をご一緒に」
グラスを掲げられ、私は丁寧に応じる。
談笑の輪が広がるたび、私の周囲には自然と人だかりができていく。
――社交界の花。
そう呼ばれることに慣れてきたはずなのに、今夜は居心地の悪さを覚えた。
なぜなら、その輪の外で、悠真が静かにこちらを見ていたから。
黒い瞳は冷ややかで、まるで氷のように固まっている。
その視線が、胸を焼く。
「莉子様、次の舞踏会にもぜひいらして。パートナーがまだ決まっていないなら……」
「ええ、考えておきますわ」
笑顔を浮かべて答えた瞬間、背後から鋭い声が響いた。
「彼女の予定は、すでに決まっている」
振り返れば、悠真が立っていた。
グラスを手にしているのに、一滴の揺らぎもない。
場にいた人々が一斉に息を呑む。
「副社長……」
「彼女は社長令嬢だ。無分別な誘いで時間を奪うのは控えていただきたい」
静かなのに、圧倒的な威圧感。
周囲の男性たちは次々と口を閉ざし、散っていく。
残された私は、胸が熱くなった。
「……どうして、そんなに」
「どうして、とは?」
「私が誰と話していても……いつも遮るでしょう」
問いかけに、彼はわずかに目を細めた。
「君が……笑うからだ」
「え?」
「誰にでも、同じ笑顔を向ける。それが――気に入らない」
心臓が跳ねる。
言葉の裏に隠された感情を、もうごまかすことはできなかった。
けれど――。
その直後、彼は表情を引き締め、背を向けた。
「誤解するな。俺は副社長として、君の立場を守っているだけだ」
冷たい背中。
でも、さっきの言葉は確かに本心だった。
私は震える指先を胸にあて、必死に呼吸を整えた。
――揺れる。
彼の言葉に、態度に、視線に。
心は何度も揺さぶられ、忘れたふりができなくなっていく。