忘れた初恋

第八章「昔日の面影」

 夜の街は、雨上がりの匂いをまだ纏っていた。
 会社を出ると、アスファルトに残った水たまりが街灯を映し、揺れる光を散らしている。
 傘を差していなかった私は、エントランスの庇の下で空を仰いだ。
 濡れるほどではない。けれど、少しでも空気に触れると、幼い日の記憶が呼び起こされる。

 ——あの日も、雨だった。
 薔薇の花びらが濡れ落ちる庭で、彼に告げられた言葉。
 「……わかったわ。じゃあ、忘れる」
 あの日の自分の声が、今も耳に残っている。

「莉子」

 名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
 庇の端に悠真が立っていた。黒い傘を片手に持ち、私を見下ろしている。
 スーツ姿の彼の肩は、外気を含んで薄く光っていた。

「……まだ帰っていなかったの?」
「会議が長引いた。君も残っていたのか」

 彼は自然な動作で傘を差し出した。
「駅まで送る」

「大丈夫よ、自分で——」
「断るな」

 低い声音。
 逆らえず、私は彼の傘の中に身を寄せた。

 歩き出すと、街のざわめきが少し遠のいて聞こえた。
 狭い傘の下、肩が触れそうな距離。
 歩幅を合わせようとすると、彼はわずかに速度を緩める。

 ——その仕草。

 幼い日の記憶が、突然よみがえった。
 雨に濡れた庭で、背の高い薔薇の枝を私に避けさせようと、一歩分遅れて歩いてくれた彼。
 同じだ。仕草が、あのときとまったく変わっていない。

「……どうした」
 私の足が止まったのに気づき、彼が振り返る。
 街灯の下で、黒曜石のような瞳が光る。
 幼いころよりも鋭く、けれど、どこか同じ影を抱えていた。

「いいえ……なんでも」
 首を振って微笑む。
 けれど胸の奥では、押し込めてきた“昔日の面影”が暴れ出していた。



 駅までの道のりは、静かな時間だった。
 信号待ちの間、ふと横顔を見上げると、彼の睫毛の影が頬に落ちていた。
 その影が、十年前の雨の日と重なる。

 あのときは、少年の横顔にしか見えなかった。
 でも今は——副社長としての冷徹な顔。
 けれど、根底にあるものはきっと同じ。

「悠真さん」
 気づけば、名前を呼んでいた。
 彼がわずかに目を向ける。

「……何だ」
「昔と、同じだなって」
「何が」
「歩幅を……合わせてくれるところ」

 口にした途端、胸が熱くなる。
 彼は一瞬だけ黙り、視線を逸らした。
 赤信号が青に変わり、歩き出す。

「……無意識だ」

 低く呟く声は、冷たいはずなのに、耳の奥でやけに温かく響いた。



 駅に着くと、人々の波が一気に押し寄せた。
 それでも傘は私の頭上から離れず、悠真の歩幅は最後まで変わらなかった。

「ありがとう」
 改札の前で立ち止まり、頭を下げる。

「仕事だからな」
 淡々と答える彼の横顔。
 けれど、その目がほんの一瞬だけ揺れたのを、私は確かに見た。

 忘れたふりを続けるはずだった。
 けれど、こうして見せられる“昔日の面影”が、私の心を揺らしてやまない。

 幼い日の初恋は、封じたままでいられるのだろうか。
 答えはまだ出せないまま、私は人混みに紛れた。
< 9 / 27 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop