焦がれ、凍てつく蜜月〜拗らせ御曹司と冷遇された社長令嬢の政略結婚〜

第十章:元彼女の登場

看病の夜が明け、陸の熱はすっかり下がっていた。
奈緒が目を覚ました時、書斎のソファはもぬけの殻で、陸はいつもの無機質なスーツに着替えていた。
「昨夜はありがとう」

陸はそう言った。その声は平坦で、感謝の意を示すと同時に、感情的な繋がりを断ち切るような冷たさを含んでいた。彼の顔には、昨夜の弱々しさも、熱にうかされて本音を漏らした痕跡もなかった。そこにあるのは、再び完璧に貼り付けられた西園寺陸の仮面だけだ。

「……昨夜、あなたが言ったこと」奈緒は、勇気を振り絞って切り出した。「先輩のことで、私を誤解して……」
陸は、奈緒の言葉を遮った。
「寝言だ。高熱の時に何を言ったか、覚えていない。君は、契約にない勝手な憶測で僕の行動を解釈するな」

奈緒の心は、一瞬で氷点下に引き戻された。彼の言葉は、あまりにも冷酷だった。昨夜の切ない告白も、無意識の懇願も、全ては「寝言」として葬り去られたのだ。
(そうよね。彼は、真実を認めない。認めたら、彼の築いた冷たい壁が崩れてしまうから)

奈緒は諦め、ただ頷くしかなかった。「わかりました。失礼しました」
その日の午後、奈緒がリビングで仕事を整理していると、呼び鈴が鳴った。ドアを開けた先に立っていたのは、奈緒が最も会いたくない人物――美咲だった。

美咲は、完璧なブランドのワンピースに身を包み、優雅な笑みを浮かべていた。しかし、その瞳の奥には、奈緒という存在に対する、鋭い探究心と警戒心がちらついていた。
「まあ、奈緒さん。新婚生活はいかが? 陸がお世話になっているわね」

美咲は、陸との関係を匂わせる「お世話」という言葉を、あえて強調した。
「西園寺様の体調不良を耳にして。ビジネスパートナーとして心配で、お見舞いに上がったの」

「お気遣いありがとうございます。陸はもう大丈夫です」
奈緒が通そうとすると、美咲は堂々とリビングに足を踏み入れた。

「あら、ご心配なく。私はあくまで、西園寺グループと片桐グループの連携について、陸と少し話があるだけよ」
奈緒は美咲の態度に強い嫉妬を感じた。この家は形式上、奈緒と陸の家であるはずなのに、美咲はまるで正妻のような振る舞いだ。

「陸は、書斎にいます」
美咲が書斎へ向かう後ろ姿を見ながら、奈緒の脳裏に昨夜の陸の言葉が蘇る。
「君との関係が変わるわけじゃない」――あの電話の相手は、美咲だった。

奈緒は、昨夜の「寝言」を信じようとした自分を馬鹿だと罵った。陸が自分を遠ざけていたのは、和泉先輩への誤解かもしれない。しかし、彼がこの形式婚を強行したのは、美咲という大切な存在を、社会的な制約から守るためだ。
しばらくして、書斎の扉が開いた。陸が美咲を伴って出てくる。

「ありがとう、美咲。話はこれで終わりだ」
陸の言葉は事務的で、美咲に対して必要以上に親密さを見せていない。むしろ、どこか壁を作っているようにも感じられた。

しかし、美咲は、その壁を無視するように、去り際に奈緒の前で立ち止まった。
「奈緒さん」美咲は、奈緒の左手の婚約指輪をちらりと見て、勝ち誇ったように微笑んだ。「陸は、私との関係をビジネス上の付き合いだとあなたに説明したそうね」
奈緒は言葉に詰まる。

美咲は、陸の腕にそっと触れ、上目遣いで奈緒を見下すような視線を送った。
「でも、私たちの関係は、あなたと彼の愛のない形式よりも、ずっと深いところで繋がっているわ。私と陸は、お互いの未来を共有しているの。あなたは、彼の形式を守ってくれればそれでいい。邪魔だけはしないでね」

美咲の言葉は、奈緒が抱きかけていた希望の光を、完全に打ち消した。
陸は美咲の行動を制止しなかった。ただ、一瞬だけ、奈緒の顔を苦しそうに見つめただけだった。

その視線は、美咲を傷つけられないという優しさか、それとも奈緒を傷つけることへの罪悪感か。奈緒には判別できない。
美咲が去った後、沈黙が支配したリビングで、奈緒は震える声で陸に尋ねた。

「……彼女の言った通りね。私は、あなたと彼女の関係を隠すための、ただの盾なのね」
陸は、奈緒から視線を外し、低く、押し殺した声で言った。
「君は、契約を果たせ」

その一言が、奈緒の心を再び凍らせた。昨夜の告白は、高熱が生んだ幻だった。奈緒は、彼の冷たさの裏にある真実(誤解)に気づき始めていたが、美咲の存在と陸の態度は、その真実を覆い隠し、二人の間のすれ違いをより深く、そして切ないものにしたのだった。
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