焦がれ、凍てつく蜜月〜拗らせ御曹司と冷遇された社長令嬢の政略結婚〜

第三章:断固拒否の裏側で

陸が奈緒の腕を掴む力は、容赦がなかった。鉄の鎖のように強く、奈緒の華奢な骨に食い込む。至近距離で見上げた彼の瞳は、いつもの冷徹な氷の奥に、制御できない炎を宿していた。
「何を怯えている、奈緒」

低い声が鼓膜を震わせる。その声には、奈緒が知る無関心さも、美咲に向ける優しさもなかった。ただ、強烈な苛立ちと、抑圧された焦燥だけが滲んでいた。
奈緒は痛みに耐えながら、決死の覚悟で抵抗した。
「怯えているんじゃないわ! 私は、あなたに嫌われている。あなたが私を冷たく突き放したのは、紛れもない事実よ。そんな相手と、一生を共にできるわけがない!」

「嫌っている、だと?」
陸は鼻で笑った。その表情は嘲笑にも、自嘲にも見え、奈緒には判別がつかない。彼は唐突に奈緒の腕を解放し、一歩後退した。その動作一つで、室内の空気は再び、絶対零度に戻る。
「片桐奈緒。お前は、この結婚が単なる家同士の形式だと理解していないのか」
「形式だからこそ、余計に嫌よ!」

奈緒は感情的に訴えた。「あなたの隣には、あなたの気持ちが向いている人がいる。私たちが結婚したら、あなたも私も、その美咲さんだって不幸になる。愛のない、冷え切った家庭なんて、誰も望んでいないわ」

奈緒の言葉を聞いた陸の表情から、一切の感情が消え失せた。彼は両手の指を組み、奈緒の顔を見下ろす。まるで、感情論を振りかざす子供を諭すかのような、冷徹な態度だった。
「無意味な感傷だ」

魂を凍らせる一言だった。
「西園寺家と片桐家が結びつくのは、この国の経済にとって必然だ。個人の感情など、瑣末な問題に過ぎない。お前には、その責務を果たす義務がある」
「そんなの、あなたの勝手な理屈よ!」

「勝手ではない。決定事項だ」陸は、一つ一つの言葉に、重い支配力を込めた。「そもそも、お前が誰を好きだろうと、僕には関係ない。この結婚で、お前の自由は制限されるが、それが嫌なら、最初から社長令嬢に生まれるべきではなかった」

奈緒の脳裏に、高校時代、遠くから見た陸と美咲の親しげな姿が蘇る。――彼は、美咲さんのことを気遣っている。だからこそ、愛のない結婚を強行しようとしているのか。美咲さんを苦しませるくらいなら、自分が苦しむ方がマシだとでも思っているのだろうか。

「陸……どうしてそこまで、私との結婚にこだわるの? あなたは、私が誰を好きかなんて関係ないと言ったけれど……」奈緒は震える声で尋ねた。
「本当は、私が誰か他の人を好いているとあなたが誤解して、だからあんなに冷たい態度を取っていたんじゃないの?」

奈緒の直感的な言葉は、陸の顔を一瞬で硬直させた。
(今、彼の顔が動いた。初めて見た、動揺の色……!)
しかし、陸はその動揺を瞬時に押し殺した。彼は冷たい笑みを浮かべ、奈緒の心を再び突き放す。
「ふざけた憶測だ。くだらない。僕の行動の理由を、お前の些細な想像に結びつけるな」
陸は、奈緒の言葉を徹底的に否定し、再び支配的な視線で彼女を射抜いた。

「いいか、奈緒。お前には拒否権はない。これはビジネスであり、お前は西園寺陸の妻という役割を、ただ完璧にこなせばいい。お前の想いも、嫌悪も、僕の知ったことではない」
「……っ」

奈緒は何も言い返せなかった。陸の態度からは、彼女が知る「嫌悪」や「無関心」ではなく、得体の知れない、異様な執着と強烈な独占欲が感じられた。
(嫌っているのに、なぜ? 彼は私を道具にしたいだけ? それとも……私が気づかない、別の理由があるの?)
奈緒は、この男が恐ろしくなった。そして同時に、彼の冷たい仮面の下に隠された、熱い感情の渦に、抗いがたい切なさを感じていた。

その夜、奈緒は自分の部屋に戻っても眠れなかった。結婚は、決定した。愛を求めず、ただ形式だけの夫婦になる。しかし、陸の「断るなんて、絶対させない」という言葉だけが、奈緒の頭の中を何度も反響し、彼女の心をかき乱し続けた。

奈緒は知らなかった。陸が結婚を強行したのは、まさしく奈緒の言った「ふざけた憶測」――奈緒が他の男を好きだと誤解し、誰にも渡したくないという、純粋すぎる独占欲と焦燥に突き動かされていたからだということを。そして、その誤解こそが、冷たい態度の真の理由だったのだ。
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