焦がれ、凍てつく蜜月〜拗らせ御曹司と冷遇された社長令嬢の政略結婚〜
第四章:婚約指輪と、美咲の影
政略結婚という名の決定事項は、瞬く間に現実のものとして奈緒に押し寄せた。両家で話し合われた準備は、すべて形式と体面を重んじたもので、奈緒の意思が反映される余地はどこにもなかった。
ある午後、陸から「行くぞ」とだけ告げられ、奈緒は車に乗せられた。行き先は、都内でも最高級のハイブランドが軒を連ねる宝飾店だ。
「婚約指輪を選ぶ」
陸はそう告げたが、彼の声には何の感情も籠もっていなかった。
「もう決まっているんでしょう、陸の趣味で」奈緒は自嘲気味に言った。「どうせ、あなたのお隣に立つ私に相応しい、一番高価で大きな石を選ぶんでしょう」
陸は運転席から奈緒を一瞥した。その視線は何も語らない。
「僕の趣味で選ぶのではない。片桐家の令嬢が、西園寺家の妻として恥をかかないための品を選ぶだけだ」
宝飾店のVIPルームに通され、最高級のダイヤモンドが並べられたトレイが目の前に置かれた。担当の女性が恭しく説明を始めるが、奈緒の耳にはほとんど入ってこない。
陸は奈緒の左手を取り、トレイの上に静かに広げた。
「どのデザインが良い」
「私の意見なんて、どうせ聞かないでしょう」
「聞いている」陸は低い声で即答した。「これが、お前がこれから永遠に身に着けるものだ。形式上は、お前の意思を尊重する」
奈緒は戸惑った。彼が、こんなにも「形式」を重んじるのはなぜだろう。彼は、奈緒の細い指をじっと見つめ、その上にいくつか指輪を乗せていく。彼の指先が奈緒の皮膚に触れるたび、奈緒の背筋に緊張が走った。
最終的に、陸は奈緒が視線を向けた、最もシンプルなデザインの指輪を選んだ。しかし、ダイヤモンドは息をのむほど大粒で、その輝きは二人の間の冷たい空気を破るように強烈だった。
会計を済ませる間、陸は奈緒の手を離さなかった。その熱も、圧力も、奈緒の心を混乱させる。彼は私を嫌っている。なのに、この独占的な態度は何なのだろう。
「これで終わりだ」
店を出た陸は、もう奈緒の方を見なかった。
その夜、新居となる西園寺家のセカンドハウスでの、形式的な顔合わせの夕食後だった。
奈緒は自分の部屋に戻る途中、陸が書斎で電話をしている話し声を聞いた。彼は、奈緒がいることに気づいていない。
「……ああ、美咲。指輪は奈緒に選ばせたよ。一番シンプルだが、最も大きなものだ」
奈緒の足が、その場で縫い付けられたように動かなくなった。
(美咲さん……?)
陸の声は、昼間の冷たさとはまるで違っていた。低く、落ち着いているが、そこには親密さが滲んでいた。
「問題ない。全ては計画通りに進んでいる。奈緒は、僕が彼女を嫌っていると思い込んでいるから、余計な反抗はしない」
(……私が、嫌われていると、思い込んでいる?)
奈緒の心臓が激しく脈打った。彼のその言葉は、まるで自分が彼の感情を誤解していると示唆しているようだった。しかし、彼の冷たさは紛れもない事実なのに。
「君のことは、僕が必ず守る。この結婚は、あくまで形式だ。君との関係が変わるわけじゃない」
奈緒の頭の中に、冷たい水が流れ込んだ。
――ああ、そうか。これこそが、彼が私との結婚を強行した真の理由だ。
陸は、美咲との関係を維持するために、両家を納得させられる「妻」が必要だったのだ。そして、自分を嫌っていると確信している奈緒なら、愛を求めず、ただ形式上の妻として、静かに彼の隣に収まると計算したのだ。
奈緒の目から、一筋の熱い涙が頬を伝った。それは、愛されていた幼い日の記憶を、陸の手によって完全に葬られた絶望の涙だった。
(私は、彼らの関係を守るための道具でしかない……)
奈緒は、音を立てないようにそっとその場を離れた。婚約指輪が嵌められた左手が、宝石の重さでずしりと重く感じられた。奈緒がこれから歩む道は、愛も温もりもない、孤独な檻の中だと知った瞬間だった。
ある午後、陸から「行くぞ」とだけ告げられ、奈緒は車に乗せられた。行き先は、都内でも最高級のハイブランドが軒を連ねる宝飾店だ。
「婚約指輪を選ぶ」
陸はそう告げたが、彼の声には何の感情も籠もっていなかった。
「もう決まっているんでしょう、陸の趣味で」奈緒は自嘲気味に言った。「どうせ、あなたのお隣に立つ私に相応しい、一番高価で大きな石を選ぶんでしょう」
陸は運転席から奈緒を一瞥した。その視線は何も語らない。
「僕の趣味で選ぶのではない。片桐家の令嬢が、西園寺家の妻として恥をかかないための品を選ぶだけだ」
宝飾店のVIPルームに通され、最高級のダイヤモンドが並べられたトレイが目の前に置かれた。担当の女性が恭しく説明を始めるが、奈緒の耳にはほとんど入ってこない。
陸は奈緒の左手を取り、トレイの上に静かに広げた。
「どのデザインが良い」
「私の意見なんて、どうせ聞かないでしょう」
「聞いている」陸は低い声で即答した。「これが、お前がこれから永遠に身に着けるものだ。形式上は、お前の意思を尊重する」
奈緒は戸惑った。彼が、こんなにも「形式」を重んじるのはなぜだろう。彼は、奈緒の細い指をじっと見つめ、その上にいくつか指輪を乗せていく。彼の指先が奈緒の皮膚に触れるたび、奈緒の背筋に緊張が走った。
最終的に、陸は奈緒が視線を向けた、最もシンプルなデザインの指輪を選んだ。しかし、ダイヤモンドは息をのむほど大粒で、その輝きは二人の間の冷たい空気を破るように強烈だった。
会計を済ませる間、陸は奈緒の手を離さなかった。その熱も、圧力も、奈緒の心を混乱させる。彼は私を嫌っている。なのに、この独占的な態度は何なのだろう。
「これで終わりだ」
店を出た陸は、もう奈緒の方を見なかった。
その夜、新居となる西園寺家のセカンドハウスでの、形式的な顔合わせの夕食後だった。
奈緒は自分の部屋に戻る途中、陸が書斎で電話をしている話し声を聞いた。彼は、奈緒がいることに気づいていない。
「……ああ、美咲。指輪は奈緒に選ばせたよ。一番シンプルだが、最も大きなものだ」
奈緒の足が、その場で縫い付けられたように動かなくなった。
(美咲さん……?)
陸の声は、昼間の冷たさとはまるで違っていた。低く、落ち着いているが、そこには親密さが滲んでいた。
「問題ない。全ては計画通りに進んでいる。奈緒は、僕が彼女を嫌っていると思い込んでいるから、余計な反抗はしない」
(……私が、嫌われていると、思い込んでいる?)
奈緒の心臓が激しく脈打った。彼のその言葉は、まるで自分が彼の感情を誤解していると示唆しているようだった。しかし、彼の冷たさは紛れもない事実なのに。
「君のことは、僕が必ず守る。この結婚は、あくまで形式だ。君との関係が変わるわけじゃない」
奈緒の頭の中に、冷たい水が流れ込んだ。
――ああ、そうか。これこそが、彼が私との結婚を強行した真の理由だ。
陸は、美咲との関係を維持するために、両家を納得させられる「妻」が必要だったのだ。そして、自分を嫌っていると確信している奈緒なら、愛を求めず、ただ形式上の妻として、静かに彼の隣に収まると計算したのだ。
奈緒の目から、一筋の熱い涙が頬を伝った。それは、愛されていた幼い日の記憶を、陸の手によって完全に葬られた絶望の涙だった。
(私は、彼らの関係を守るための道具でしかない……)
奈緒は、音を立てないようにそっとその場を離れた。婚約指輪が嵌められた左手が、宝石の重さでずしりと重く感じられた。奈緒がこれから歩む道は、愛も温もりもない、孤独な檻の中だと知った瞬間だった。