焦がれ、凍てつく蜜月〜拗らせ御曹司と冷遇された社長令嬢の政略結婚〜
第五章:冷たい新居と、偽りの契約
婚約からわずか一週間後、奈緒は西園寺陸との新しい生活を始めることになった。
場所は、都心から少し離れた閑静な高級住宅街に建つ、陸が仕事用として購入したというセカンドハウス。
新居と言っても、二人が選んだわけではなく、全て陸の秘書が手配し、最高級の家具と最新の設備が整えられた、機能的だが温かみのない空間だった。
奈緒が荷物を運び込んでも、陸の気配はほとんどない。その日も、夕食の時間が迫って初めて、彼は書斎から出てきた。
陸は奈緒を一瞥し、キッチンに立つ奈緒に向かって歩み寄る。
「ルールを定める」
その声は、ビジネスの場で交渉を始める時のように、冷徹で事務的だった。
奈緒は食器を拭く手を止め、振り向いた。大きな窓から入る西日が、陸の端正な顔立ちを、さらに冷たく際立たせていた。
「この結婚は形式だ。愛は存在しない。君も理解しているはずだ」
奈緒は胸に鋭い痛みを覚えながらも、冷静を装って頷いた。「ええ。昨日、あなたが美咲さんと電話で話している内容を聞きましたから。私が、あなたたちの関係を守るための盾だと」
陸の表情は一瞬たりとも変わらない。奈緒が彼の秘密を握っていることすら、彼の計算の内だったかのようだ。
「優秀だ。話が早い」
彼は奈緒に一歩近づき、テーブルに両手をついて身を乗り出した。その距離に、奈緒は息を詰める。
「一つ。寝室は別々だ。夫婦としての営みは必要ない。ただし、両親や外部の人間がいる前では、必要に応じて夫婦らしい振る舞いをしろ。手を繋ぐ程度なら許可する」
「……分かったわ」
「二つ。互いの行動に干渉するな。僕の交友関係に口出しは無用だ。君も自由に振る舞っていい。ただし、西園寺の妻としての体面は保て」
それは、奈緒が美咲の件で彼を責める権利がないことを、暗に示していた。
「三つ」陸は低い声で、最も重要なことを告げた。「この結婚生活において、君は僕に愛情を求めない。僕は君に愛を捧げることはできない。だから、期待するな」
奈緒の心に、ナイフが突き立てられたような痛みが走った。分かっていたことだ。分かっていたけれど、面と向かって突きつけられると、呼吸すら苦しくなる。
「――ご心配なく」奈緒は、震える声を押し殺し、努めて平静を装った。「あなたに嫌われている私が、あなたに愛情を求めることなんて、絶対にあり得ないわ」
その瞬間、陸の瞳の奥が一瞬だけ揺れたように見えた。しかし、それは瞬きほどの速さで消え去り、また氷の視線に戻る。
陸は奈緒から離れ、書斎へと戻る階段を上り始めた。その背中には、一切の迷いがない。
「いいか、奈緒」階段の途中、振り返らずに陸は言った。
「この契約を破棄する権利は、僕にしかない。君は僕が許可するまで、西園寺陸の妻でいろ」
扉が閉まり、静寂が新居を包み込んだ。残された奈緒は、その場で崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。
(愛はいらない。形式だけ……)
奈緒が望んだのは、かつてのような温かい笑顔と、隣で他愛ない話ができる無邪気な日々だった。
しかし、手に入れたのは、冷たい豪邸と、愛のない契約書。
「嫌われているのに、結婚なんて……」
奈緒は、自分の胸に手を当てた。陸の言葉一つ一つが、彼女の初恋を少しずつ殺していく。この孤独な檻の中で、いつまで「偽りの妻」を演じ続けられるのだろうか。
奈緒が知らないのは、この契約が陸自身に向けた、一種の自己規制でもあったことだ。彼女が他の男(和泉先輩)を愛していると信じ込んでいる陸は、奈緒を独占したい衝動と、彼女の幸せを願う理性の間で激しく葛藤し、この冷たい契約によって、何とか自身の感情を閉じ込めているのだ。
二人のすれ違いは、この冷たい新居で、さらに深く、拗れていくことになる。
場所は、都心から少し離れた閑静な高級住宅街に建つ、陸が仕事用として購入したというセカンドハウス。
新居と言っても、二人が選んだわけではなく、全て陸の秘書が手配し、最高級の家具と最新の設備が整えられた、機能的だが温かみのない空間だった。
奈緒が荷物を運び込んでも、陸の気配はほとんどない。その日も、夕食の時間が迫って初めて、彼は書斎から出てきた。
陸は奈緒を一瞥し、キッチンに立つ奈緒に向かって歩み寄る。
「ルールを定める」
その声は、ビジネスの場で交渉を始める時のように、冷徹で事務的だった。
奈緒は食器を拭く手を止め、振り向いた。大きな窓から入る西日が、陸の端正な顔立ちを、さらに冷たく際立たせていた。
「この結婚は形式だ。愛は存在しない。君も理解しているはずだ」
奈緒は胸に鋭い痛みを覚えながらも、冷静を装って頷いた。「ええ。昨日、あなたが美咲さんと電話で話している内容を聞きましたから。私が、あなたたちの関係を守るための盾だと」
陸の表情は一瞬たりとも変わらない。奈緒が彼の秘密を握っていることすら、彼の計算の内だったかのようだ。
「優秀だ。話が早い」
彼は奈緒に一歩近づき、テーブルに両手をついて身を乗り出した。その距離に、奈緒は息を詰める。
「一つ。寝室は別々だ。夫婦としての営みは必要ない。ただし、両親や外部の人間がいる前では、必要に応じて夫婦らしい振る舞いをしろ。手を繋ぐ程度なら許可する」
「……分かったわ」
「二つ。互いの行動に干渉するな。僕の交友関係に口出しは無用だ。君も自由に振る舞っていい。ただし、西園寺の妻としての体面は保て」
それは、奈緒が美咲の件で彼を責める権利がないことを、暗に示していた。
「三つ」陸は低い声で、最も重要なことを告げた。「この結婚生活において、君は僕に愛情を求めない。僕は君に愛を捧げることはできない。だから、期待するな」
奈緒の心に、ナイフが突き立てられたような痛みが走った。分かっていたことだ。分かっていたけれど、面と向かって突きつけられると、呼吸すら苦しくなる。
「――ご心配なく」奈緒は、震える声を押し殺し、努めて平静を装った。「あなたに嫌われている私が、あなたに愛情を求めることなんて、絶対にあり得ないわ」
その瞬間、陸の瞳の奥が一瞬だけ揺れたように見えた。しかし、それは瞬きほどの速さで消え去り、また氷の視線に戻る。
陸は奈緒から離れ、書斎へと戻る階段を上り始めた。その背中には、一切の迷いがない。
「いいか、奈緒」階段の途中、振り返らずに陸は言った。
「この契約を破棄する権利は、僕にしかない。君は僕が許可するまで、西園寺陸の妻でいろ」
扉が閉まり、静寂が新居を包み込んだ。残された奈緒は、その場で崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。
(愛はいらない。形式だけ……)
奈緒が望んだのは、かつてのような温かい笑顔と、隣で他愛ない話ができる無邪気な日々だった。
しかし、手に入れたのは、冷たい豪邸と、愛のない契約書。
「嫌われているのに、結婚なんて……」
奈緒は、自分の胸に手を当てた。陸の言葉一つ一つが、彼女の初恋を少しずつ殺していく。この孤独な檻の中で、いつまで「偽りの妻」を演じ続けられるのだろうか。
奈緒が知らないのは、この契約が陸自身に向けた、一種の自己規制でもあったことだ。彼女が他の男(和泉先輩)を愛していると信じ込んでいる陸は、奈緒を独占したい衝動と、彼女の幸せを願う理性の間で激しく葛藤し、この冷たい契約によって、何とか自身の感情を閉じ込めているのだ。
二人のすれ違いは、この冷たい新居で、さらに深く、拗れていくことになる。