焦がれ、凍てつく蜜月〜拗らせ御曹司と冷遇された社長令嬢の政略結婚〜

第七章:初めての夫婦としての顔

新居での生活が始まって数日。奈緒と陸の関係は、冷たい契約の上に成り立っていた。二人の会話は最低限の事務連絡のみ。寝室は別々、食事も時間が合わなければ別々。互いの存在を無視し合うことで、形式上の「夫婦」が保たれていた。
しかし、その平穏は、陸の母からの一本の電話によって破られた。

「奈緒さん。今度の西園寺グループの合同パーティー、二人で出席しなさい。婚約後、正式に夫婦として社交界にお披露目するのが筋でしょう」
奈緒は逃れられない義務を突きつけられた。

当日、奈緒はシンプルな黒のロングドレスに身を包んだ。首元で輝くのは、陸に選ばばれた大粒のダイヤの婚約指輪だ。まるで、この関係の重荷を象徴するかのように、石の重さがずしりと感じられた。
陸は、奈緒の隣に現れた。タキシード姿の彼は、完璧すぎて冷たい彫刻のようだった。

「いいか、奈緒。これはビジネスだ。君は終始、幸せな妻を演じろ。余計な口を利くな」
「心得ています」奈緒は感情を押し殺して答えた。「愛を求めない、形式だけの妻ですから」

陸の表情が微かに引き締まったが、すぐに元に戻る。
パーティー会場は、財界の人間で埋め尽くされていた。陸が奈緒の腰に手を回し、エスコートする。その距離は近すぎて、奈緒は心臓の鼓動が早まるのを感じた。

「西園寺陸です。こちらは、妻となる片桐奈緒です」
陸の口から「妻」という言葉が発せられるたびに、奈緒の胸は軋んだ。周囲の視線は熱く、二人が並ぶ姿は、まさに完璧な夫婦に見えただろう。陸は社交辞令を完璧にこなし、奈緒にも適度な微笑みを要求する。
(私たちは、最高の役者だ)

その夜、奈緒は美咲の姿を見なかった。しかし、その不在が、かえって奈緒を不安にさせた。美咲がこの場にいないのは、陸が彼女との関係を守るために、妻である奈緒を「盾」として完璧に利用している証拠ではないか、と。

パーティーの終盤、陸は奈緒の手を取り、バルコニーへ誘導した。外の冷たい空気が、奈緒の頭を冷やす。
「お前は、この手の場は苦手だろう」陸は珍しく、奈緒の心情を推し量るような言葉を口にした。
「……あなたの隣にいるのは、苦手です」奈緒は、抑えきれずに本音を漏らした。

陸は目を閉じ、深い息を吐き出した。「そうだろうな」
その時、陸が奈緒の左手を持ち上げ、指に嵌められた婚約指輪に触れた。
「――綺麗だ」
陸が言ったのは、指輪のことか、それとも奈緒のドレス姿のことか。奈緒には判別できなかった。彼の指先が、奈緒の指先を、わずかに撫でる。その瞬間、奈緒の心に微かな熱が灯った。

「ねぇ、陸」奈緒は勇気を出して尋ねた。「どうして、そこまでして私をそばに置きたいの? 嫌いなはずなのに。……美咲さんが、そんなに大事なの?」

陸はゆっくりと奈緒を見つめ返した。闇夜に浮かぶ彼の瞳は、奈緒の核心を突く質問に、答えを渋っているようだった。
「……関係ないだろう。君は、僕との契約を果たせばいい」

結局、陸は何も答えなかった。しかし、彼の指が奈緒の指を握る力が、一瞬だけ強くなったのを、奈緒は確かに感じた。
新居に戻った後も、その夜の緊張感は解けなかった。陸は自分の部屋に戻る前に、リビングで立ち止まった。
「……今夜は、疲れただろう」

その声は、昼間の冷徹な御曹司のものではなく、かつて奈緒を気遣ってくれた、幼馴染の声に近かった。
奈緒は驚き、陸を見上げた。陸は奈緒の目をまっすぐ見つめ、そして、手を伸ばした。
奈緒の頬に、陸の指先が触れる。その指先は少し冷たかったが、奈緒の頬に残るパーティーの熱を静かに奪っていく。

「早く休め。明日も、早い」
陸はそう言って、すぐに手を離し、自室の扉を閉めた。
奈緒は一人残されたリビングで、触れられた頬を静かに押さえた。彼の冷たい態度に慣れていたはずなのに、彼の一瞬の優しさに、心が激しく揺さぶられる。
(彼は、私を嫌っている。これはただの、形式的な気遣いだ) 

そう頭では理解していても、奈緒の心は、久しぶりに感じた幼馴染の温もりに、希望を抱いてしまっていた。この切ないすれ違いが、二人の蜜月の夜に、わずかな熱を帯び始めたのだった。
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