焦がれ、凍てつく蜜月〜拗らせ御曹司と冷遇された社長令嬢の政略結婚〜
第八章:焦燥と、夜中の呼び出し
合同パーティーを境に、陸の態度は微かに変化した。以前のような、奈緒の存在を徹底的に無視する冷酷さは鳴りを潜めたが、代わりに、どこか落ち着かない、焦燥のようなものが彼を包み込んでいた。
彼は書斎にこもる時間が増え、奈緒と顔を合わせる機会はさらに減った。形式的な生活は続くものの、奈緒は陸が時折見せる、自分を値踏みするような視線に気づいていた。その視線は、嫌悪ではなく、何かを必死に堪えているような、複雑な感情を宿していた。
ある深夜、奈緒が自室で読書を終え、ようやく眠りにつこうとしていたとき、スマートフォンがけたたましく鳴った。表示された名前は、「陸」。
(こんな時間に……?)
奈緒は動揺しながら電話に出た。
「……もしもし」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもの低く整った声とは全く違う、掠れた息遣いだった。
『……奈緒、か』
「陸? どうしたの、声がおかしいわ。何かあったの?」
『……悪い。秘書にも連絡がつかない。少し、来い』
「どこに? まだ会社にいるの?」
『……書斎だ。急げ』
そう言って、一方的に電話は切られた。奈緒は戸惑いながらも、ただならぬ事態だと悟った。陸の冷酷なプライドが、夜中に彼女を呼び出すことを許したとは思えない。
奈緒はガウンを羽織り、静かに廊下を歩いた。
書斎の重厚な扉をノックするが、返事はない。意を決して扉を開けると、書斎の空気は一瞬で奈緒を包んだ。熱い。異常なほどの熱気と、薬のような匂い。
陸は、デスクではなく、書斎の隅にある小さな革張りのソファに、ぐったりと凭れかかっていた。顔は驚くほど蒼白で、額には玉のような汗が浮かび、呼吸は荒い。
「陸!」
奈緒は慌てて駆け寄った。彼の額に触れると、肌を焼くような高熱だった。
「どうしたの、熱があるじゃない! 秘書に連絡するわ」
陸は弱々しく奈緒の手首を掴んだ。
「無駄だ。今日に限って全員、重要な会議で地方へ行っている。……薬も、切らした」
奈緒は、完璧な仮面を剥がされた、弱り切った幼馴染の姿を目の当たりにした。彼はいつも、誰にも弱みを見せない、孤高の存在だったのに。
「全く、何を一人で無理しているの」
奈緒は怒りよりも、心配が勝った。彼女はすぐに救急箱を探し、冷却シートや体温計を見つけ出した。テキパキと体温を測ると、表示された数字に息をのむ。
「39.5度……! 医者を呼ぶわ。動けなくても、すぐに」
「いい」陸はか細く首を振った。「医者に見せるほどではない。一晩休めば治る。……君は、部屋に戻れ」
奈緒の存在が、彼にとって煩わしいものだと示す最後のプライドだった。
「馬鹿言わないで」奈緒は静かに言った。「私たちは形式上の夫婦でしょう? 形式上、あなたが倒れているのを放っておくことは、西園寺の妻として体面が保てないわ」
奈緒はそう言って、濡らしたタオルを陸の額に乗せた。ひんやりとした感触に、陸の体がわずかに強張る。
「……君に、看病をさせる義理はない」
「そうね。でも、これは契約とは関係ない」奈緒は、熱に浮かされた陸の冷たい頬に触れた。「昔の私なら、こうしていても、誰も不思議に思わなかったでしょう? 幼馴染として、あなたが熱を出したら心配するのは、当たり前よ」
奈緒の言葉は、陸の凍てついた理性の壁に、小さな亀裂を入れた。陸は目を閉じ、抵抗を諦めたように、静かに奈緒の看病を受け入れた。
奈緒は一晩中、彼のそばを離れなかった。額のタオルを替え、荒い息遣いを聞き、彼の寝顔を見つめる。
(嫌われているのに、こんなに心配している……私って、本当に馬鹿ね)
そう思いながらも、陸の苦しむ姿を見ていると、昔の無邪気な日々が蘇り、奈緒の胸は痛んだ。彼の孤独が、高熱と共に伝わってくるようだった。
そして、夜明け前。熱にうかされた陸が、微かに唸りながら、何かを口にした。
「……行くな、奈緒」
それは、命令でも、契約でもなく、彼の心の奥底から漏れ出た、純粋な懇願だった。
奈緒の心臓が、激しく高鳴った。彼は今、熱のせいで、素直な本音を口にしたのか。行かないでほしいと、彼が私に求めたのか。
奈緒はそっと陸の手に自分の手を重ねた。
「ここにいるわ、陸。どこにも行かない」
その夜中の看病は、二人の間に交わされた冷たい契約では測れない、幼馴染としての本質的な繋がりを、奈緒に再認識させる出来事となった。そして、陸の心の奥に隠された、奈緒への強い執着が、初めて言葉となって奈緒の耳に届いたのだった。
彼は書斎にこもる時間が増え、奈緒と顔を合わせる機会はさらに減った。形式的な生活は続くものの、奈緒は陸が時折見せる、自分を値踏みするような視線に気づいていた。その視線は、嫌悪ではなく、何かを必死に堪えているような、複雑な感情を宿していた。
ある深夜、奈緒が自室で読書を終え、ようやく眠りにつこうとしていたとき、スマートフォンがけたたましく鳴った。表示された名前は、「陸」。
(こんな時間に……?)
奈緒は動揺しながら電話に出た。
「……もしもし」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもの低く整った声とは全く違う、掠れた息遣いだった。
『……奈緒、か』
「陸? どうしたの、声がおかしいわ。何かあったの?」
『……悪い。秘書にも連絡がつかない。少し、来い』
「どこに? まだ会社にいるの?」
『……書斎だ。急げ』
そう言って、一方的に電話は切られた。奈緒は戸惑いながらも、ただならぬ事態だと悟った。陸の冷酷なプライドが、夜中に彼女を呼び出すことを許したとは思えない。
奈緒はガウンを羽織り、静かに廊下を歩いた。
書斎の重厚な扉をノックするが、返事はない。意を決して扉を開けると、書斎の空気は一瞬で奈緒を包んだ。熱い。異常なほどの熱気と、薬のような匂い。
陸は、デスクではなく、書斎の隅にある小さな革張りのソファに、ぐったりと凭れかかっていた。顔は驚くほど蒼白で、額には玉のような汗が浮かび、呼吸は荒い。
「陸!」
奈緒は慌てて駆け寄った。彼の額に触れると、肌を焼くような高熱だった。
「どうしたの、熱があるじゃない! 秘書に連絡するわ」
陸は弱々しく奈緒の手首を掴んだ。
「無駄だ。今日に限って全員、重要な会議で地方へ行っている。……薬も、切らした」
奈緒は、完璧な仮面を剥がされた、弱り切った幼馴染の姿を目の当たりにした。彼はいつも、誰にも弱みを見せない、孤高の存在だったのに。
「全く、何を一人で無理しているの」
奈緒は怒りよりも、心配が勝った。彼女はすぐに救急箱を探し、冷却シートや体温計を見つけ出した。テキパキと体温を測ると、表示された数字に息をのむ。
「39.5度……! 医者を呼ぶわ。動けなくても、すぐに」
「いい」陸はか細く首を振った。「医者に見せるほどではない。一晩休めば治る。……君は、部屋に戻れ」
奈緒の存在が、彼にとって煩わしいものだと示す最後のプライドだった。
「馬鹿言わないで」奈緒は静かに言った。「私たちは形式上の夫婦でしょう? 形式上、あなたが倒れているのを放っておくことは、西園寺の妻として体面が保てないわ」
奈緒はそう言って、濡らしたタオルを陸の額に乗せた。ひんやりとした感触に、陸の体がわずかに強張る。
「……君に、看病をさせる義理はない」
「そうね。でも、これは契約とは関係ない」奈緒は、熱に浮かされた陸の冷たい頬に触れた。「昔の私なら、こうしていても、誰も不思議に思わなかったでしょう? 幼馴染として、あなたが熱を出したら心配するのは、当たり前よ」
奈緒の言葉は、陸の凍てついた理性の壁に、小さな亀裂を入れた。陸は目を閉じ、抵抗を諦めたように、静かに奈緒の看病を受け入れた。
奈緒は一晩中、彼のそばを離れなかった。額のタオルを替え、荒い息遣いを聞き、彼の寝顔を見つめる。
(嫌われているのに、こんなに心配している……私って、本当に馬鹿ね)
そう思いながらも、陸の苦しむ姿を見ていると、昔の無邪気な日々が蘇り、奈緒の胸は痛んだ。彼の孤独が、高熱と共に伝わってくるようだった。
そして、夜明け前。熱にうかされた陸が、微かに唸りながら、何かを口にした。
「……行くな、奈緒」
それは、命令でも、契約でもなく、彼の心の奥底から漏れ出た、純粋な懇願だった。
奈緒の心臓が、激しく高鳴った。彼は今、熱のせいで、素直な本音を口にしたのか。行かないでほしいと、彼が私に求めたのか。
奈緒はそっと陸の手に自分の手を重ねた。
「ここにいるわ、陸。どこにも行かない」
その夜中の看病は、二人の間に交わされた冷たい契約では測れない、幼馴染としての本質的な繋がりを、奈緒に再認識させる出来事となった。そして、陸の心の奥に隠された、奈緒への強い執着が、初めて言葉となって奈緒の耳に届いたのだった。