焦がれ、凍てつく蜜月〜拗らせ御曹司と冷遇された社長令嬢の政略結婚〜

第九章:看病の夜、漏れる本音

夜が明ける気配はまだない。書斎の重いカーテンは閉ざされ、室内にいるのは高熱に苦しむ陸と、看病を続ける奈緒だけだった。
奈緒は、ソファの横に置いたスツールに座り、陸の額に当てた濡れタオルを替えた。熱がなかなか下がらないことに、奈緒の不安は募る。陸は苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。

(昨夜の「行くな、奈緒」は、気のせいじゃなかったはず)
奈緒は、熱にうかされた言葉とはいえ、彼の口から漏れた本音に捕らわれていた。彼が自分を突き放し、嫌悪の視線を向けるのは、彼女のためだと信じている。だが、心の奥底では、誰にも渡したくないという、強い独占欲を抱えているのではないか。

奈緒がタオルを替えるため、陸の額から手を離そうとした、その瞬間。
陸が、奈緒の手首を掴んだ。力は弱いが、拒否の許されない強い意志を感じる。
「……触るな」

陸はそう言いながら、掴んだ奈緒の手を、自分の頬に引き寄せた。奈緒の指が、熱を持つ彼の頬に触れる。
「……っ、熱い!」
「これでいい」

陸は目を閉じたまま、奈緒の手のひらに頬を寄せた。その行動は、無防備で、幼い頃の陸が、風邪を引いた時によく見せた甘えを彷彿とさせた。奈緒は、彼のこの姿を、何年も見ていなかった。

「陸、体温が下がらないわ。少しでも水を飲んで」
奈緒は静かに懇願した。陸は目を開けることなく、ただかすかに頷いた。奈緒はグラスを近づけ、そっと口元を濡らしてやる。その間、陸の視線はぼんやりと奈緒を見つめていた。

「どうして……ここにいる」
「いるに決まっているでしょう」奈緒は囁くように返した。「形式上の妻だから」
「違う」陸は、か細いが力のある声で否定した。「君は、僕が嫌いなはずだ。僕が……君を傷つけた。なのに、どうして」

奈緒は、胸が締め付けられるのを感じた。この期に及んで、彼はまだ「自分は嫌われている」という確信を崩していない。そして、自分を冷たく突き放したのが、奈緒を「傷つけた」行為だと自覚していた。
「……嫌いよ。あなたの冷たい態度も、私を道具にしようとすることも、全部」

奈緒はあえて、嘘のない「嫌い」を口にした。しかし、彼女の視線は、熱で苦しむ彼の顔から離れない。
「でも、私はあなたの幼馴染でもあるわ。熱を出して倒れている人を放っておけるほど、冷酷じゃない」

陸は、その答えに微かに口角を上げた。それは笑いではなく、諦めのような、切ない表情だった。
「優しすぎるんだ、奈緒」
陸は、奈緒の手を掴んだまま、再び目を閉じた。そして、独り言のように、懺悔のように、言葉を紡ぎ出した。
「僕は……知っていた。お前が、あの先輩に恋をしていることを」

奈緒の心臓が、激しく跳ね上がった。
(先輩……和泉先輩のことに、気づいていた?)
「だから、僕は、邪魔をしないように……冷たいフリをした」

陸の言葉は、熱による苦痛で途切れ途切れになる。
「お前が幸せになるなら、僕はお前の世界から消えるべきだと……。でも、政略結婚の話が出た時……怖くなった。お前が、他の誰かの妻になることが……耐えられなかった」

彼の告白は、奈緒の心の奥底に響いた。彼の冷たさの裏に隠されていたものが、嫌悪ではなく、純粋すぎる誤解と独占欲だったと知った。

「断るなんて、絶対させない」というあの夜の言葉が、愛する者を失うことへの恐怖だったのだと理解した。
奈緒は、陸の頬を覆っていた自分の手を、そっと彼の髪に滑らせた。
「陸……私は……」

奈緒が真実を伝えようとした瞬間、陸は深く、長く、息を吐き出した。そして、眠りに落ちた。彼の握る力は緩んだが、奈緒の手はまだ彼の頬に残っている。
奈緒は涙が零れそうになるのを堪えながら、彼が眠っていることを確認した。彼の告白は、彼自身の罪であり、奈緒の苦しみの源だった。

(私は、嫌われていたんじゃなくて、誤解されていた……?)
この拗れに拗れた関係の根源を知った奈緒の心は、激しい動揺と、どうしようもない切なさで満たされた。陸への想いを封じ込めていた氷が、彼の熱と本音によって、音を立てて溶け始めていた。
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