お嬢様の人生、買わせていただきます
第1話 ロンバルディ家の没落
独立都市・プリマヴェーラ。
海に面した商人の街だ。国内外からあらゆる物が集まる、政治的中立性を保持した華やかな街。
最先端の流行を好む貴婦人が集い、自身の才覚を信じる若き野心家の集う街。
商才さえあれば、いくらでも成り上がれる夢のある街。
そして、才能がなければ呆気なく落ちぶれてしまう街。
プリマヴェーラで栄華を極めた大商家・ロンバルディ家。ロンバルディ家は数世代にわたって莫大な財産を築き、プリマヴェーラでも有数の名家として権力を有していた。しかしその栄華は、今、崩れ去ろうとしていた……。
◆
「お姉さま! まだ掃除は終わらないの? それに、昼食の用意もまだできてないみたいだけれど?」
異母妹であるマルティナに怒鳴りつけられ、申し訳ありません、とラウラは素直に頭を下げた。
けれど謝ったからといって、納得する妹ではない。だが謝らなければ、マルティナはさらにヒステリックにわめき散らすのだ。
「本当にのろまね! それに、掃除が遅れたなら、まずは食事の用意をするべきだとさえ分からないのかしら?」
「……申し訳ありません」
「謝るだけしかできないの? 謝る暇があったら、手を動かしたらどう?」
マルティナはそう言うと、部屋の隅においてあった水入りのバケツを蹴飛ばした。当然、中に入っていた水が床を濡らす。
「こぼれたわよ。さっさと拭いて!」
「……はい」
雑巾を手に取り、膝をついて床を拭く。するとようやく、マルティナが部屋を出ていってくれた。
ここ最近、マルティナは今まで以上にイライラしているのよね。
それに、女学校を退学になってから、ずっと家にいるんだもの。
はあ、と心の中で溜息を吐く。異母妹の態度にはとっくに慣れているけれど、疲れないわけじゃない。
ラウラは、プリマヴェーラの大商家・ロンバルディ家の長女だ。しかし、ロンバルディ家の血は引いていない。
ロンバルディ家の女主人・アリアンナは父の再婚相手だ。そしてマルティナは、アリアンナと父の娘である。
つまりラウラと血の繋がりがある父はロンバルディ家の婿養子で、ラウラは完全な余所者なのだ。
物心がついた時から使用人同然の扱いだった。だが、ここ最近はさらに扱いが悪くなっている。
ロンバルディ家の経営が傾いているからだ。
大量にいた使用人は全員解雇され、学費が払えなくなったせいでマルティナは女学校を退学になった。今では義母ですら、満足するレベルの食事を口にすることはできなくなったらしい。
「……これから、どうなるのかしら」
窓に映る自分を見つめ、ラウラは呟いた。
黄金で作ったかのような眩しい金色の髪、真昼の海のように澄んだ瞳。
プリマヴェーラで一番の美女と謳われた実母に似た美貌を持つラウラだが、年頃の娘だというのに、婚約者どころか友達すらいない。
唯一の肉親である父は、ラウラよりもロンバルディ家を愛している。
ロンバルディ家が潰れてしまったら、行き場所なんてないのだ。
こんな家、本当はすぐに出ていきたい。
でもわたくしには、行く場所もないわ。
「……海はあんなに広いのに、どうして、わたくしの世界はこんなに狭いのかしら」
◆
大きな物音がして、屋敷の扉が強引に開けられた。そして、十数名の黒い服をきた男たちが入ってくる。
音につられて二階の自室から飛び出したラウラは、いきなりの状況に固まってしまった。
「おい、まだここから出ていっていないのか! もうこの家は、お前たちロンバルディ家の所有物じゃないんだぞ!」
先頭にいた大柄な男が怒鳴り散らす。すると、広間からアリアンナと父が出てきた。
「も、申し訳ございません。ですがここを追い出されたら、わたくし共には行き場所もなく……どうかご容赦を……!」
アリアンナは深く頭を下げた。しかし男たちは微動だにしない。
アリアンナ様が誰かに頭を下げる姿なんて、初めて見たわ。
それに、この屋敷がもうロンバルディ家の物じゃないって、本当なの?
プリマヴェーラの一等地に建つこの屋敷は歴史ある建物で、ロンバルディ家の所有物だ。いつの間にかロンバルディ家の財政は、この屋敷を売りに出すまでになっていたのか。
「私からもお願いします。なんとかお金は用意します。ですから……!」
アリアンナに続いて、父も深く頭を下げた。けれどやはり、男たちは何の反応も示さない。
「ここはもう、我らが主人の物だ。契約も済んでいる。それに、屋敷を差し出しても、お前たちにはまだ借金が残っているだろう。お前たちに金を用意できるとは思えんな」
アリアンナたちは頭を下げたまま何も言わない。それが、男の言っていることが事実だと示していた。
「そこで、だ。お前たちに、我が主人からありがたい提案がある」
大男が言うと、新しい男が玄関から入ってきた。他の男たちとは違って、かなり華やかな衣服を身に纏っている。
体型にぴったり沿うように作られた黒のスーツに、裏地が紫色の上品なジャケット。ネクタイや靴下の小物に至るまで、全てにセンスのよさが表れていた。
「お久しぶりですね、ロンバルディ家の皆様」
赤い瞳に、漆黒の髪。知的で、ほんの少し気難しそうな、繊細な美貌。
あれ……?
この人って……? いや、でもまさか、そんなはずはないわよね?
鼓動が速くなる。いてもたってもいられなくなって、ラウラは慌てて階段を駆け下りた。
階段を下り、正面から男を見つめる。そして、期待は確信に変わった。
「ロレンツォ……!?」
間違いない。やはり、この男はロレンツォだ。
「ラウラお嬢様、お久しぶりです」
ラウラを見つめ、ロレンツォはにっこりと笑った。昔と変わらない、穏やかで優しい笑顔だ。
どうして、ロレンツォがここに?
ロレンツォは、ロンバルディ家の元執事だ。よく働いてくれていて、他の使用人とは違い、ラウラにも丁重に接してくれていた。
しかしロンバルディ家の財政が悪化し、数カ月前に解雇された。ラウラを虐げない彼はアリアンナから嫌われており、真っ先に首を切られたのである。
「……ど、どうして?」
「それはですね、お嬢様」
ロレンツォは一歩前に出ると、ラウラに一礼した。
しかしアリアンナたちに対しては、ゴミを見るような冷ややかな眼差しを向けている。
「私が、この屋敷を買ったからです」
「……え?」
「私は今、貿易を営んでいます。自分で言うのもなんですが、かなり成功したんですよ。品のない言い方ですが、この服装を見れば分かるでしょう?」
「そ、そうだったの……」
プリマヴェーラは、商才さえあればどんな身分の者でも成り上がれる街だ。
けれどまさか、数カ月前までただの執事だったロレンツォが、ロンバルディ家を買い取るほどの商人になっているなんて。
「そして今日から、ロンバルディ家の方々も私の物です」
そう言うと、ロレンツォはアリアンナに視線を戻した。
「人間の生活ができると思うなよ、下種どもが」
聞いたことがないほど低い声に身体が震えてしまう。
「ラウラお嬢様も、さあ」
ロレンツォが微笑んで手を差し出してくる。戸惑いながらも手を重ねると、ロレンツォにぎゅっと手を握られた。
優雅な見た目とはうらはらに、手のひらはかたい。
「ラウラお嬢様。今日から貴女も、私の物です」
とびきり甘い笑顔に、甘い声。
いきなりの状況に頭がついていかず、ラウラは頷くことしかできなかった。
海に面した商人の街だ。国内外からあらゆる物が集まる、政治的中立性を保持した華やかな街。
最先端の流行を好む貴婦人が集い、自身の才覚を信じる若き野心家の集う街。
商才さえあれば、いくらでも成り上がれる夢のある街。
そして、才能がなければ呆気なく落ちぶれてしまう街。
プリマヴェーラで栄華を極めた大商家・ロンバルディ家。ロンバルディ家は数世代にわたって莫大な財産を築き、プリマヴェーラでも有数の名家として権力を有していた。しかしその栄華は、今、崩れ去ろうとしていた……。
◆
「お姉さま! まだ掃除は終わらないの? それに、昼食の用意もまだできてないみたいだけれど?」
異母妹であるマルティナに怒鳴りつけられ、申し訳ありません、とラウラは素直に頭を下げた。
けれど謝ったからといって、納得する妹ではない。だが謝らなければ、マルティナはさらにヒステリックにわめき散らすのだ。
「本当にのろまね! それに、掃除が遅れたなら、まずは食事の用意をするべきだとさえ分からないのかしら?」
「……申し訳ありません」
「謝るだけしかできないの? 謝る暇があったら、手を動かしたらどう?」
マルティナはそう言うと、部屋の隅においてあった水入りのバケツを蹴飛ばした。当然、中に入っていた水が床を濡らす。
「こぼれたわよ。さっさと拭いて!」
「……はい」
雑巾を手に取り、膝をついて床を拭く。するとようやく、マルティナが部屋を出ていってくれた。
ここ最近、マルティナは今まで以上にイライラしているのよね。
それに、女学校を退学になってから、ずっと家にいるんだもの。
はあ、と心の中で溜息を吐く。異母妹の態度にはとっくに慣れているけれど、疲れないわけじゃない。
ラウラは、プリマヴェーラの大商家・ロンバルディ家の長女だ。しかし、ロンバルディ家の血は引いていない。
ロンバルディ家の女主人・アリアンナは父の再婚相手だ。そしてマルティナは、アリアンナと父の娘である。
つまりラウラと血の繋がりがある父はロンバルディ家の婿養子で、ラウラは完全な余所者なのだ。
物心がついた時から使用人同然の扱いだった。だが、ここ最近はさらに扱いが悪くなっている。
ロンバルディ家の経営が傾いているからだ。
大量にいた使用人は全員解雇され、学費が払えなくなったせいでマルティナは女学校を退学になった。今では義母ですら、満足するレベルの食事を口にすることはできなくなったらしい。
「……これから、どうなるのかしら」
窓に映る自分を見つめ、ラウラは呟いた。
黄金で作ったかのような眩しい金色の髪、真昼の海のように澄んだ瞳。
プリマヴェーラで一番の美女と謳われた実母に似た美貌を持つラウラだが、年頃の娘だというのに、婚約者どころか友達すらいない。
唯一の肉親である父は、ラウラよりもロンバルディ家を愛している。
ロンバルディ家が潰れてしまったら、行き場所なんてないのだ。
こんな家、本当はすぐに出ていきたい。
でもわたくしには、行く場所もないわ。
「……海はあんなに広いのに、どうして、わたくしの世界はこんなに狭いのかしら」
◆
大きな物音がして、屋敷の扉が強引に開けられた。そして、十数名の黒い服をきた男たちが入ってくる。
音につられて二階の自室から飛び出したラウラは、いきなりの状況に固まってしまった。
「おい、まだここから出ていっていないのか! もうこの家は、お前たちロンバルディ家の所有物じゃないんだぞ!」
先頭にいた大柄な男が怒鳴り散らす。すると、広間からアリアンナと父が出てきた。
「も、申し訳ございません。ですがここを追い出されたら、わたくし共には行き場所もなく……どうかご容赦を……!」
アリアンナは深く頭を下げた。しかし男たちは微動だにしない。
アリアンナ様が誰かに頭を下げる姿なんて、初めて見たわ。
それに、この屋敷がもうロンバルディ家の物じゃないって、本当なの?
プリマヴェーラの一等地に建つこの屋敷は歴史ある建物で、ロンバルディ家の所有物だ。いつの間にかロンバルディ家の財政は、この屋敷を売りに出すまでになっていたのか。
「私からもお願いします。なんとかお金は用意します。ですから……!」
アリアンナに続いて、父も深く頭を下げた。けれどやはり、男たちは何の反応も示さない。
「ここはもう、我らが主人の物だ。契約も済んでいる。それに、屋敷を差し出しても、お前たちにはまだ借金が残っているだろう。お前たちに金を用意できるとは思えんな」
アリアンナたちは頭を下げたまま何も言わない。それが、男の言っていることが事実だと示していた。
「そこで、だ。お前たちに、我が主人からありがたい提案がある」
大男が言うと、新しい男が玄関から入ってきた。他の男たちとは違って、かなり華やかな衣服を身に纏っている。
体型にぴったり沿うように作られた黒のスーツに、裏地が紫色の上品なジャケット。ネクタイや靴下の小物に至るまで、全てにセンスのよさが表れていた。
「お久しぶりですね、ロンバルディ家の皆様」
赤い瞳に、漆黒の髪。知的で、ほんの少し気難しそうな、繊細な美貌。
あれ……?
この人って……? いや、でもまさか、そんなはずはないわよね?
鼓動が速くなる。いてもたってもいられなくなって、ラウラは慌てて階段を駆け下りた。
階段を下り、正面から男を見つめる。そして、期待は確信に変わった。
「ロレンツォ……!?」
間違いない。やはり、この男はロレンツォだ。
「ラウラお嬢様、お久しぶりです」
ラウラを見つめ、ロレンツォはにっこりと笑った。昔と変わらない、穏やかで優しい笑顔だ。
どうして、ロレンツォがここに?
ロレンツォは、ロンバルディ家の元執事だ。よく働いてくれていて、他の使用人とは違い、ラウラにも丁重に接してくれていた。
しかしロンバルディ家の財政が悪化し、数カ月前に解雇された。ラウラを虐げない彼はアリアンナから嫌われており、真っ先に首を切られたのである。
「……ど、どうして?」
「それはですね、お嬢様」
ロレンツォは一歩前に出ると、ラウラに一礼した。
しかしアリアンナたちに対しては、ゴミを見るような冷ややかな眼差しを向けている。
「私が、この屋敷を買ったからです」
「……え?」
「私は今、貿易を営んでいます。自分で言うのもなんですが、かなり成功したんですよ。品のない言い方ですが、この服装を見れば分かるでしょう?」
「そ、そうだったの……」
プリマヴェーラは、商才さえあればどんな身分の者でも成り上がれる街だ。
けれどまさか、数カ月前までただの執事だったロレンツォが、ロンバルディ家を買い取るほどの商人になっているなんて。
「そして今日から、ロンバルディ家の方々も私の物です」
そう言うと、ロレンツォはアリアンナに視線を戻した。
「人間の生活ができると思うなよ、下種どもが」
聞いたことがないほど低い声に身体が震えてしまう。
「ラウラお嬢様も、さあ」
ロレンツォが微笑んで手を差し出してくる。戸惑いながらも手を重ねると、ロレンツォにぎゅっと手を握られた。
優雅な見た目とはうらはらに、手のひらはかたい。
「ラウラお嬢様。今日から貴女も、私の物です」
とびきり甘い笑顔に、甘い声。
いきなりの状況に頭がついていかず、ラウラは頷くことしかできなかった。
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