蒼穹の覇者は、激愛で契約妻と秘密の我が子を逃がさない

3章・新しい日々

 七月。悠眞(ゆうま)と暮らすマンションで玲奈(れいな)が朝食の準備をしていると、玄関のドアを開け閉めする音が聞こえた。
 足音で彼がバスルームに向かったのを感じていると、ほどなくして、リビングダイニングに悠眞が顔を出す。

「おはよう」

「おはようございます」

 時刻は六時を少し過ぎたところだ。朝のルーティンとして軽く運動をしてシャワーを浴びたため、髪が濡れている。

「ちょうど、食事の準備ができたところです。今日からニューヨーク便と聞いていたので、今朝は和食にしました」

「いつも言っていることだが、毎日、こんなにキッチリ食事の準備をしなくてもいいんだぞ」

 キッチンに回り込んだ悠眞が、玲奈の手元を覗き込んで言う。
 彼はそう言うが、もともと料理好きの玲奈としては、そこまで凝ったものを作っているつもりはない。
 今日のおかずは、豆腐のお味噌汁にひじきの煮物、キュウリの浅漬けと、サワラの西京焼き。確かに一見凝っているように見えるけど、その実そこまででもない。
 キュウリの浅漬けとひじきの煮物は作り置きだし、サワラの西京焼きも、前の日に仕込んだものを焼いただけだ。

「でも悠眞さんの仕事は、体力勝負だから。それに悠眞さん、和食が好きじゃないですか」

 そう話しても悠眞がもの言いたげな表情のままなので、玲奈は「料理は私の趣味です」と、断言する。
 その意見には、悠眞も納得をするしかないらしい。

「確かに、玲奈の料理の腕前は、こちらを気遣って……というレベルじゃないな」

「だから私としては、素直に喜んでもらえるとうれしいです」

「ありがとう。玲奈のおかげで、体調管理は完璧だ」

 そう言って悠眞は、盛り付けた料理をダイニングテーブルに運ぶ。
 パイロットは多くの人の命を預かる責任重大な職務なので、半年に一度のペースで航空身体検査が義務づけられている。
 そのため彼は、常に自身の体調管理に注意をはらっているので、玲奈としては、得意の料理で健康面をサポートしたい。

「だけど玲奈は、仕事でも料理をしているから、飽きるんじゃないのか?」

「悠眞さん、空を飛ぶのに飽きてますか?」

「……なるほど」

 食卓につく悠眞が納得する。

「そういうことです。それに仕事でも料理していると言っても、週三日のアルバイトですし」

 ふたりぶんのご飯とお味噌汁をテーブルに運ぶ玲奈が言う。

「それでも仕事は仕事だ。家のことを玲奈に任せきりにしている身として、負担を気にするのは、当然だろう」

 悠眞はぶっきらぼうに言う。

「お気遣いありがとうございます。でも本当に、料理は、私の趣味なんです」

 一緒に暮らして、彼のこういったぶっきらぼうな話し方は照れ隠しのようなものだと理解しているので、玲奈はお礼を言って席に着く。
 悠眞と向き合って座り、それぞれ手を合わせて食事を始めた。
 花婿を横取りされ、いたたまれない思いで瑠依奈たちの式に参列していたのは、今年の四月のこと。
 そこで知り合った悠眞に契約結婚を提案された時は、戸惑いしかなかった。
 それでも、出会ったばかりの彼が自分を肯定してくれたことに背中を押されて、新しい一歩を踏み出して今にいたる。
 あの日、突然彼のマンションに転がり込む形で始まった同居生活だけど、ふたりの関係は、いたって良好だ。
 ペンション経営を生業とする遠縁の松原梢に間に入ってもらい、両親には悠眞と暮らすことにしたと伝えてもらった。
 それに対する両親の回答は、親として好ましいものではなかったのだろう。仲介役を引き受けてくれた梢は、親からの伝言を玲奈に伝えることなく、『これからは私が玲奈ちゃんの親代わりをつとめるから、なにか困ったことがあったら遠慮なく連絡して』とだけ話した。
 ちなみにそれまで玲奈が使っていたスマホは梢に託してもらえなかったので、新しいものを契約し直した。結果、これまでの人間関係を清算できたような気がしているので、それで構わない。
 悠眞と暮らすマンションは、空港への利便性がよい神奈川にあることも、都内在住だった玲奈の気持ちを切り替えさせることに一役買っている。
 そうやって親の支配から解放された玲奈は、思い切って近くのカフェでアルバイトも始めたのだ。
 玲奈が働きたいと言いだした時、悠眞は玲奈を気遣って、生活費は自分が出すので急いで働く必要はないと言ってくれたけど、そういうことではない。
 両親に反対され諦めただけで、料理好きの玲奈は、ずっと飲食関係の仕事をしたいと思っていたのだ。
 とはいえ学生時代のアルバイト経験もなく、仕事といえば、白石運輸での勤務のみ。しかも社長の娘ということで、どこかお客様扱いの働き方しかしたことがないので、最初の一歩にかなりの勇気がいった。
 それでも近所のカフェで週末だけのアルバイトを募集していると知って、踏み出してみたのだ。
 結果採用され、金曜日から日曜日の昼間から夕方過ぎまで働いている。
 最初は心配していた悠眞も、玲奈が楽しんで働いていると理解してからは、逆に応援してくれている。
 国際線の機長である悠眞は不在がちなので、玲奈の気分転換にもちょうどいいという思いもあるようだ。

「今回のフライト先はニューヨークで、帰りは四日後になりますよね?」

 食終の片付けを始める玲奈は、出勤の準備を始める悠眞に声を掛けた。
 基本ニューヨーク便は、日本からニューヨークまで、十数時間をかけてフライトし、中一日休んで、またニューヨークから日本へのフライトを担当するのが常だ。
 帰国後は、数日の休暇を挟んでまたフライトになる。行き先は、事前にある程度知らされているが、他のパイロットの体調不良などの事情で変更になることもあるので、そのための確認だ。
 彼と暮らし出すまでは、国際線のパイロットというのは、華やかな職業というイメージだった。
 だけどそばで見ていると、健康管理のためにストイックな生活が求められるし、場合によっては、深夜に電話が来て予定変更が告げられ、呼び出されることもあるので、なかなかに大変な仕事なのだと知った。
 それでも悠眞は、いつも楽しげにしているので、彼は本当に自分の仕事を愛しているのだとわかる。

「ニューヨーク土産の希望はあるか?」

 悠眞が玲奈に聞く。

「仕事で行くんだから、そんなに気を遣わないでください」

「そうか」

 玲奈の言葉に、悠眞は素っ気なく返してリビングを出ていく。

「さて、悠眞さんが身支度をする間に食器を洗っちゃおう」

 キッチンでスポンジを泡立てる玲奈は、なんとなく楽しくなってクスクス笑いをする。
 まだ一緒に暮らし始めて数ヶ月しか経っていないけど、悠眞との共同生活は驚くほど快適だ。
 といっても、国際線のパイロットである彼は不在がちなので、一緒に過ごす時間は限られている。
 もちろん寝室も、最初の提案どおり別々なので、関係は清いままだ。
 出会った時に悠眞は、自分のことを女嫌いと話していたけど、そんな感じはなく、同居人である玲奈を常に気遣ってくれる。

(悠眞さんの場合、ただ無愛想なだけだよね)

 本人の話によれば、男子校育ちでサバサバした同性との距離感に慣れている悠眞にとって、業務のさなかにまで、仕事にかこつけて迫ってくる女性の存在が煩わしく、結果として女性嫌いになったとのことだ。
 だから愛想良くして女性との距離を縮めたいと思えず、結果、無愛想な態度が身についてしまったのだとか。
 そんな事情を聞かされれば、彼の女性嫌いというのは、彼がそれだけ真摯に自身の仕事と向き合っている証拠でしかない。
 それに仕事を離れている時の彼は、一緒に暮らす玲奈をいつも気遣ってくれているので、女性嫌いというのとは違うだろう。

(無愛想なだけで、素の悠眞さんは、かなりのお人好しだよね)

 さっき行き先を確認しただけなのに、お土産の希望を聞いてきた彼を思い出スト、その結論にたどり着く。
 人のいい悠眞のことだ、初対面の玲奈に契約結婚を提案は、玲奈を気の毒に思ってのことなのだろう。
 それがわかっているからこそ、彼の気遣いに救われた玲奈としては、落ち込んだり遠慮したりしている暇があるなら、彼との暮らしを快適なものにするために使いたい。

(この先どうなるかはわからないけど……)

 悠眞には、とりあえず一年間のお試し同居をしようと提案されている。
 一年一緒に暮らしてみて、どちらかが関係の継続を望まないのであれば、この関係は解消される。
 来年の春、ふたりがどんな結論を出すのかはまだわからないけど、どんな結果になっても後悔しないよう、彼と過ごす時間を大切にしたい。
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