蒼穹の覇者は、激愛で契約妻と秘密の我が子を逃がさない
8章・そばにいたくて
次の日の日曜日の朝。双子が寝ている隙にノートパソコンで今日の予約状況を確認していた玲奈は、ふとその動きを止めた。
「梢さん、202号室のご予約のお客様、お名前の登録がありませんけど?」
玲奈は、キッチンでコーヒーを淹れている梢に声をかけた。
バウムクローネの宿泊予約は旅行予約サイトから予約される場合と、電話やホームページから直接バウムクローネに予約が入る場合がある。
予約サイトからのものは、そのまま名前や連絡先などの個人情報が反映されるのだけれど、直接予約を受けた場合は、スタッフがその都度情報を入力する仕組みだ。
旅館宿泊法で宿泊者名簿の備付けが義務付けられていることもあり、いつもは予約を受けた段階でそういったことを確認して、情報を入力しておく。
だけど、今回それがなされていない。
しかも一週間という長目の宿泊予定だ。
チェクインの際に必要な情報を記入してもらえば問題ないのだけど、もし現れなかった場合は対応に困る。
「そのお客様は、私が直接受けたものだから大丈夫よ」
玲奈の分もコーヒーを淹れてきてくれた梢が、カップを玲奈の傍らに置いて言う。
「直接……」
そう言われて、なんとはなしに昨日の夜、珍しく梢が出かけていたことを思い出す。
玲奈に一日休むことを勧めてくれた梢だけれど、夕方急に用事ができたから悪いけど夕食後の片付けや留守の間の雑務をお願いしたいと声をかけてきた。
もちろん玲奈にそれを断る理由はない。その時は、どこに行くのか気にも留めていなかった。
だけどよく考えたら、その時は202号室に予約が入ってなかったように思うので、この予約は昨日の外出に関係しているのかもしれない。
「どちらからかの、紹介ですか?」
かなり稀なケースではあるが、宿泊を受けていた他の宿泊施設が、ダブルブッキングや稼働率割れの休業により予約を受けていたお客様の宿泊を予定通りに受けられなくなることがある。
その場合、予約を受けた宿泊施設の方でお客様の代わりの宿を手配することとなり、相手の意向を確認してから正式な宿泊手続きをするので、それまでこちらには細かい情報がおりてこない。
今回もそういったケースなのだろうかと思い梢に聞くが、曖昧に言葉を濁すだけで明言はしてくれなかった。
そうこうしている間に、梢は宿泊客の朝食の準備があるからとリビングを出て行き、玲奈も双子たちが起きてきたので会話はそれまでとなった。
その後は、午前中は清掃にアメニティの補充、夕食の仕込みの手伝いと、双子の様子を見ながら忙しく働いていて、202号室の件は、玲奈の頭から完全に抜け落ちていた。
気がつけば十四時を過ぎている。
十五時を過ぎると、宿泊予約者のチェックインも始まって忙しくなるので、他のスタッフに一声かけて双子をお昼寝させてきた玲奈がフロントに戻って仕事をしていると、ドアベルが鳴った。
「ようこそバウムクロ……」
タイミング的に宿泊客だと思い込み、出迎えの挨拶を口にしながら顔を上げた玲奈は、そこで言葉を止めた。
(悠眞さん、どうして……)
昨日決別を告げたはずの彼が、何食わぬ顔でバウムクローネのドアを潜ってくる。その姿に、玲奈はなにも言えなくなる。
「予約した鷹條悠眞です」
そのままカウンターに歩み寄って来た悠眞が告げるが、今朝予約状況を確認した際に、彼の名前を目にした記憶はない。
ただし、梢が直接受けたという名前のわからない予約ならひとつあった。
(まさか……)
玲奈がそう思った時、人が来た気配を感じたのか、梢が奥から顔を出した。
「鷹條様、ご予約ありがとうございます」
何食わぬ顔で悠眞に声をかけた梢は、玲奈に「202号室に宿泊予定の鷹條様よ」と、彼を紹介する。
「鷹條さんよって、……梢さん」
梢が、彼が誰であるか知らないはずがない。
顔まで認識していたかはともかく、玲奈の結婚相手として名前は告げていたし、別れた後、梢は妊娠を告げるために彼のもとを尋ねたこともあったのだから。
ついでに言えば、玲奈が姿を消すなりあっさり諦めた薄情者だと、彼のことを散々なじっていた。
それなのに梢は、〝鷹條悠眞〟なんて名前に全く記憶がないようなそぶりで、玲奈に彼のチェックイン手続きと部屋までの案内を任せてくる。
バウムクローネは二階建てのそれほど大きくないペンションなので、それがあれば部屋まで案内する必要はない。
普段なら食事や入浴が可能な時間帯を記載した簡単な館内地図を渡して終わりにしている。
「梢さん、この人は……」
「お客様よ」
オーナーである梢に、ニッコリ笑顔で押し切られてしまえば、それ以上はなにも言えない。
玲奈は渋々覚悟を決めた。
おそらく昨日、梢が会いにいっていたのは悠眞なのだろう。
そこでふたりがどんな話し合いをして、この状況に至ったのかは不明だけれど、梢が悠眞をペンションの利用客として受け入れるというのであれば、玲奈も彼を他の客と同様に扱うしかない。
「ではまず、こちらの宿泊台帳にご記入をお願いいたします」
これは仕事なのだと自分に言い聞かせ、玲奈は悠眞にそう声をかけた。
「ありがとう」
悠眞はお礼を告げ、カウンターに設置してあるペンで必要事項を記入していく。
ペンを握る彼の手を見ていると、その手に触れられていた時代を思い出してなんとなく落ち着かない。
それになにより、今日も彼の左手薬指には指輪が嵌められたままというのも気にかかる。
(昨日は、独身だって言っていたのに。あれは、結婚はしていないけど内縁関係の人はいるって意味だったのかな?)
彼とはもう別々の人生を歩んでいる――そう心に言い聞かせていたはずなのに、こんなに近くにいては、うまく感情が抑えられない。
玲奈が複雑な思いで手元を見ていると、記入を終えた悠眞が顔を上げた。
「どうかしたか?」
「な、なんでもないです。ではお部屋にご案内させていただきます」
ビジネスライクに接すればいいだけ。
普段はフロントで部屋番号を伝えて鍵を渡すだけなので、部屋に案内する段階でかなり特別扱いをしているのだけれど、そのことに関しては考えないでおく。
とにかく目の前にいるこの人は、ただのお客様なのだと自分に言い聞かせて歩き出す。
悠眞は玲奈が荷物を預かろうとするのを断り、自分で小さな旅行カバンを運ぶ。
階段を上りながら玲奈は、施設内の設備を簡単に説明した。
「迷惑をかけてすまない」
二階の廊下に並んで立つと、悠眞が詫びる。
「謝るくらいなら、どうしてこんなことを」
昨日玲奈は、ちゃんと彼を拒絶したはずだ。
これまで悠眞は、玲奈が口にした願いをいつも叶えてくれていた。
それなのに、どうして今回だけ、もう関わらないでほしいという玲奈の願いを聞き入れてくれなかったのだろう。
二階の廊下に立った玲奈は、彼に不満げな眼差しを向ける。
「もちろん、それが玲奈の心からの願いなら、俺はなにも言わずに姿を消す。もちろん子供たちにも、俺が父親だと名乗る気はない」
「父親って、……あの子たちの父親は……」
まだチェックインには早い時間で、廊下や階段には玲奈たちしかない。
「生まれた時期を考えても、俺の子供としか考えられないだろ」
慌てて否定しようとする玲奈の声を、悠眞が遮る。
そんなふうに断言されると、咄嗟には否定の言葉が出てこない。
悠眞以外の男性を愛したことのない玲奈には、たとえ一時しのぎの方便でも、双子の父親が別の男性だとは言えなかった。
玲奈が否定も肯定もできずにいると、悠眞はそれでいいと言いたげに頷く。
「それでも玲奈が違うと言うなら、俺はその言葉を信じる。子供の存在も知らず、これまでなにもせずにいた俺に、今さら父親を名乗る資格がないと思うのは当然だから」
その言い方は、かなりズルい。
彼自身、その自覚はあるのだろう。グッと唇を噛みしめる玲奈に、悠眞は微かに申し訳なさそうな表情を見せた。
それでも、悠眞はこう続ける。
「だけど、玲奈が俺を想ってなにも告げずにいたとわかるから、知らん顔はできない。玲奈や子供たちのために俺にできることがないか、考える時間を与えてほしい」
真摯に訴えかけてくる悠眞の言葉に、玲奈の心が揺れる。
自分がなにを言いたいのかわからないまま玲奈が口を開こうとした時、階下でドアベルの音が微かに聞こえた。
続いてガヤガヤと賑やかな話し声もする。
新たなお客さんが到着したらしい。
普段なら日曜日は新たにチェックインするお客様は少ないのだけれど、まだ春休みの学校も多いので今日は忙しい。
「すみません。団体のお客さんが到着したみたいです」
「ああ、引き止めてすまない」
悠眞のその言葉を背に、玲奈は階下に戻っていった。
「梢さん、202号室のご予約のお客様、お名前の登録がありませんけど?」
玲奈は、キッチンでコーヒーを淹れている梢に声をかけた。
バウムクローネの宿泊予約は旅行予約サイトから予約される場合と、電話やホームページから直接バウムクローネに予約が入る場合がある。
予約サイトからのものは、そのまま名前や連絡先などの個人情報が反映されるのだけれど、直接予約を受けた場合は、スタッフがその都度情報を入力する仕組みだ。
旅館宿泊法で宿泊者名簿の備付けが義務付けられていることもあり、いつもは予約を受けた段階でそういったことを確認して、情報を入力しておく。
だけど、今回それがなされていない。
しかも一週間という長目の宿泊予定だ。
チェクインの際に必要な情報を記入してもらえば問題ないのだけど、もし現れなかった場合は対応に困る。
「そのお客様は、私が直接受けたものだから大丈夫よ」
玲奈の分もコーヒーを淹れてきてくれた梢が、カップを玲奈の傍らに置いて言う。
「直接……」
そう言われて、なんとはなしに昨日の夜、珍しく梢が出かけていたことを思い出す。
玲奈に一日休むことを勧めてくれた梢だけれど、夕方急に用事ができたから悪いけど夕食後の片付けや留守の間の雑務をお願いしたいと声をかけてきた。
もちろん玲奈にそれを断る理由はない。その時は、どこに行くのか気にも留めていなかった。
だけどよく考えたら、その時は202号室に予約が入ってなかったように思うので、この予約は昨日の外出に関係しているのかもしれない。
「どちらからかの、紹介ですか?」
かなり稀なケースではあるが、宿泊を受けていた他の宿泊施設が、ダブルブッキングや稼働率割れの休業により予約を受けていたお客様の宿泊を予定通りに受けられなくなることがある。
その場合、予約を受けた宿泊施設の方でお客様の代わりの宿を手配することとなり、相手の意向を確認してから正式な宿泊手続きをするので、それまでこちらには細かい情報がおりてこない。
今回もそういったケースなのだろうかと思い梢に聞くが、曖昧に言葉を濁すだけで明言はしてくれなかった。
そうこうしている間に、梢は宿泊客の朝食の準備があるからとリビングを出て行き、玲奈も双子たちが起きてきたので会話はそれまでとなった。
その後は、午前中は清掃にアメニティの補充、夕食の仕込みの手伝いと、双子の様子を見ながら忙しく働いていて、202号室の件は、玲奈の頭から完全に抜け落ちていた。
気がつけば十四時を過ぎている。
十五時を過ぎると、宿泊予約者のチェックインも始まって忙しくなるので、他のスタッフに一声かけて双子をお昼寝させてきた玲奈がフロントに戻って仕事をしていると、ドアベルが鳴った。
「ようこそバウムクロ……」
タイミング的に宿泊客だと思い込み、出迎えの挨拶を口にしながら顔を上げた玲奈は、そこで言葉を止めた。
(悠眞さん、どうして……)
昨日決別を告げたはずの彼が、何食わぬ顔でバウムクローネのドアを潜ってくる。その姿に、玲奈はなにも言えなくなる。
「予約した鷹條悠眞です」
そのままカウンターに歩み寄って来た悠眞が告げるが、今朝予約状況を確認した際に、彼の名前を目にした記憶はない。
ただし、梢が直接受けたという名前のわからない予約ならひとつあった。
(まさか……)
玲奈がそう思った時、人が来た気配を感じたのか、梢が奥から顔を出した。
「鷹條様、ご予約ありがとうございます」
何食わぬ顔で悠眞に声をかけた梢は、玲奈に「202号室に宿泊予定の鷹條様よ」と、彼を紹介する。
「鷹條さんよって、……梢さん」
梢が、彼が誰であるか知らないはずがない。
顔まで認識していたかはともかく、玲奈の結婚相手として名前は告げていたし、別れた後、梢は妊娠を告げるために彼のもとを尋ねたこともあったのだから。
ついでに言えば、玲奈が姿を消すなりあっさり諦めた薄情者だと、彼のことを散々なじっていた。
それなのに梢は、〝鷹條悠眞〟なんて名前に全く記憶がないようなそぶりで、玲奈に彼のチェックイン手続きと部屋までの案内を任せてくる。
バウムクローネは二階建てのそれほど大きくないペンションなので、それがあれば部屋まで案内する必要はない。
普段なら食事や入浴が可能な時間帯を記載した簡単な館内地図を渡して終わりにしている。
「梢さん、この人は……」
「お客様よ」
オーナーである梢に、ニッコリ笑顔で押し切られてしまえば、それ以上はなにも言えない。
玲奈は渋々覚悟を決めた。
おそらく昨日、梢が会いにいっていたのは悠眞なのだろう。
そこでふたりがどんな話し合いをして、この状況に至ったのかは不明だけれど、梢が悠眞をペンションの利用客として受け入れるというのであれば、玲奈も彼を他の客と同様に扱うしかない。
「ではまず、こちらの宿泊台帳にご記入をお願いいたします」
これは仕事なのだと自分に言い聞かせ、玲奈は悠眞にそう声をかけた。
「ありがとう」
悠眞はお礼を告げ、カウンターに設置してあるペンで必要事項を記入していく。
ペンを握る彼の手を見ていると、その手に触れられていた時代を思い出してなんとなく落ち着かない。
それになにより、今日も彼の左手薬指には指輪が嵌められたままというのも気にかかる。
(昨日は、独身だって言っていたのに。あれは、結婚はしていないけど内縁関係の人はいるって意味だったのかな?)
彼とはもう別々の人生を歩んでいる――そう心に言い聞かせていたはずなのに、こんなに近くにいては、うまく感情が抑えられない。
玲奈が複雑な思いで手元を見ていると、記入を終えた悠眞が顔を上げた。
「どうかしたか?」
「な、なんでもないです。ではお部屋にご案内させていただきます」
ビジネスライクに接すればいいだけ。
普段はフロントで部屋番号を伝えて鍵を渡すだけなので、部屋に案内する段階でかなり特別扱いをしているのだけれど、そのことに関しては考えないでおく。
とにかく目の前にいるこの人は、ただのお客様なのだと自分に言い聞かせて歩き出す。
悠眞は玲奈が荷物を預かろうとするのを断り、自分で小さな旅行カバンを運ぶ。
階段を上りながら玲奈は、施設内の設備を簡単に説明した。
「迷惑をかけてすまない」
二階の廊下に並んで立つと、悠眞が詫びる。
「謝るくらいなら、どうしてこんなことを」
昨日玲奈は、ちゃんと彼を拒絶したはずだ。
これまで悠眞は、玲奈が口にした願いをいつも叶えてくれていた。
それなのに、どうして今回だけ、もう関わらないでほしいという玲奈の願いを聞き入れてくれなかったのだろう。
二階の廊下に立った玲奈は、彼に不満げな眼差しを向ける。
「もちろん、それが玲奈の心からの願いなら、俺はなにも言わずに姿を消す。もちろん子供たちにも、俺が父親だと名乗る気はない」
「父親って、……あの子たちの父親は……」
まだチェックインには早い時間で、廊下や階段には玲奈たちしかない。
「生まれた時期を考えても、俺の子供としか考えられないだろ」
慌てて否定しようとする玲奈の声を、悠眞が遮る。
そんなふうに断言されると、咄嗟には否定の言葉が出てこない。
悠眞以外の男性を愛したことのない玲奈には、たとえ一時しのぎの方便でも、双子の父親が別の男性だとは言えなかった。
玲奈が否定も肯定もできずにいると、悠眞はそれでいいと言いたげに頷く。
「それでも玲奈が違うと言うなら、俺はその言葉を信じる。子供の存在も知らず、これまでなにもせずにいた俺に、今さら父親を名乗る資格がないと思うのは当然だから」
その言い方は、かなりズルい。
彼自身、その自覚はあるのだろう。グッと唇を噛みしめる玲奈に、悠眞は微かに申し訳なさそうな表情を見せた。
それでも、悠眞はこう続ける。
「だけど、玲奈が俺を想ってなにも告げずにいたとわかるから、知らん顔はできない。玲奈や子供たちのために俺にできることがないか、考える時間を与えてほしい」
真摯に訴えかけてくる悠眞の言葉に、玲奈の心が揺れる。
自分がなにを言いたいのかわからないまま玲奈が口を開こうとした時、階下でドアベルの音が微かに聞こえた。
続いてガヤガヤと賑やかな話し声もする。
新たなお客さんが到着したらしい。
普段なら日曜日は新たにチェックインするお客様は少ないのだけれど、まだ春休みの学校も多いので今日は忙しい。
「すみません。団体のお客さんが到着したみたいです」
「ああ、引き止めてすまない」
悠眞のその言葉を背に、玲奈は階下に戻っていった。