妖精渉る夕星に〜真摯な愛を秘めた外科医は、再会した絵本作家を逃さない〜

8 妖精が通り過ぎた後に

 北斗が停めたタクシーに乗っている間、二人の間に会話はなかった。ただ繋いだ手から、互いの緊張と照れが伝わってくる。

 第一総合病院からほど近くにある高層マンションの前でタクシーが止まり、先に降りた花梨はマンションを見上げて小さく息を吐いた。

 早鐘のように打ち続ける胸元をギュッと握りしめて、これから起こるであろう出来事を想像しては、緊張で体がこわばっていく。

 でも不思議と逃げたいという気持ちはなかった。それは自分の意思で彼といたいと思ったからに違いなかった。

 支払いを終えて降りてきた北斗が、
「ここの十二階なんだ」
と言いながら花梨の手を取る。

 自動ドアが開き、エレベーターに乗り込むと、言葉はなく静かな時間が過ぎていく。しかし実際は心臓の音がうるさいくらいに響き渡っていた。

 彼に伝わっていたらどうしよう──今口を開いたら感情が全て溢れてしまいそうで、不安な気持ちを押し込めるように俯く。

 エレベーターを降り、彼に手を引かれるままに歩いて行く。『1203』と書かれた部屋の前で立ち止まり、北斗が部屋の鍵を開けるまでの時間がやけに長く感じた。

 扉が開き、北斗が先に中へ入るように促してきたので、花梨は頷いてから中へと足を踏み入れる。男性の部屋に入るのは初めての経験で、ドキドキが止まらなくなる。

「お邪魔します……」

 白いタイル張りの玄関で靴を脱ぎ、同色の廊下を進んでいく。扉を開けてリビングに入った花梨は、大きな窓から見える眺望に感嘆の声を漏らした。

 花梨の実家は戸建てで、今住んでいるのもマンションとはいえ二階。高層マンションには縁がなく、まるで展望台に登ったかのような気分になる。

「すごい眺め……」

 窓に近寄った途端、北斗に背後から抱きしめられ、息が止まりそうになった。

 もしかして、もうしちゃうの……⁉︎ ──花梨の気持ちが伝わったのか、北斗は手の力を少し緩める。

「いきなりごめん。俺が我慢できないだけだから……ちょっとだけこうさせて」

 北斗の息が耳に吹きかかり、肌から熱が伝わってくる。心の準備はここに来るまでにしてきたが、経験がない花梨はどうしたらいいのかわからず、もう流れに任せるしかないと覚悟を決めていた。

 北斗に肩を掴まれ、くるりと彼の方に向き直る。二人の視線が絡み、徐々に互いの顔が近付いた──その瞬間、二人の唇が重なり合った。
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