『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』
序章「指輪」
午後の日差しが、重厚な書斎のガラス越しに射し込んでいた。
古い時計の振り子が、ゆっくりと時を刻む。
「結奈。――この話はもう決まったことだ」
デスクの向こう、父の声はいつも通り落ち着いていた。
「間宮グループと東条コンツェルンの縁談。双方にとって悪くない話だ」
黒革のソファに座る結奈は、白いワンピースの裾をぎゅっと握りしめた。
「……いやよ。知らない人と結婚なんて」
「“政略”という言葉は知っているだろう?」
「知ってる。でも私は――」
喉の奥がつまる。
この家に生まれた時から、決められた道を歩くのが当然だと分かっていた。
でも、“恋も知らないまま結婚する”なんて、あまりに味気ない。
沈黙を破ったのは、背後から聞こえた低い声だった。
「――社長。少し、よろしいですか」
ゆっくりと振り向くと、黒いスーツに身を包んだ青年が立っていた。
父の秘書、一条悠真。
無表情で冷静、けれど会議のたびに誰よりも誠実で頼りになる人。
そのまなざしはいつも凪いだ湖のように穏やかで、けれど今は、少しだけ揺れて見えた。
「彼女が嫌がっているようです。……無理に進めるのは、得策ではありません」
「悠真、おまえが口を挟むことではない」
「ですが、結婚は人生の選択です。数字では計れません」
父が眉をひそめる。
そんな中、悠真は一歩前に出て、まっすぐこちらを見つめた。
「もし社長がどうしてもこの縁談を進めたいとおっしやるのなら――」
息をのむ結奈の前で、彼は静かに言った。
「僕が、結奈さんと結婚します」
部屋の空気が一瞬で止まった。
父が呆然と彼を見る。結奈もまた、息をするのを忘れた。
「な、何を言ってるの、悠真さん……!?」
「形式的なものです。……彼女が望むなら、“契約”としてでも構わない」
父が深くため息をつく。
「おまえ、何を考えている」
「社長に仕えてきた七年間。結奈さんのこともずっと見てきました。彼女がどんな人か、誰より知っているつもりです」
その声は穏やかで、けれどどこかに熱を含んでいた。
結奈は混乱していた。
冗談のつもり? それとも――本気?
けれどその時、悠真の瞳に“本気の色”が宿っているのを見てしまった。
「……そんなの、偽装結婚よ」
「ええ。偽りでも構いません。――けれど俺は、誰にも渡したくない」
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
ただ胸の奥で、何かが静かに鳴った。
翌週、二人の“契約結婚”は社内でも極秘で行われた。
指輪だけが、静かに光る。
誰にも知られないように――まるで、沈黙の誓いのように。
だがこの瞬間、結奈はまだ知らなかった。
その沈黙が、やがて自分の心を締めつける鎖になることを。
そして、“絶対に好きにならない”と誓った男に、恋をしてしまうことを――
古い時計の振り子が、ゆっくりと時を刻む。
「結奈。――この話はもう決まったことだ」
デスクの向こう、父の声はいつも通り落ち着いていた。
「間宮グループと東条コンツェルンの縁談。双方にとって悪くない話だ」
黒革のソファに座る結奈は、白いワンピースの裾をぎゅっと握りしめた。
「……いやよ。知らない人と結婚なんて」
「“政略”という言葉は知っているだろう?」
「知ってる。でも私は――」
喉の奥がつまる。
この家に生まれた時から、決められた道を歩くのが当然だと分かっていた。
でも、“恋も知らないまま結婚する”なんて、あまりに味気ない。
沈黙を破ったのは、背後から聞こえた低い声だった。
「――社長。少し、よろしいですか」
ゆっくりと振り向くと、黒いスーツに身を包んだ青年が立っていた。
父の秘書、一条悠真。
無表情で冷静、けれど会議のたびに誰よりも誠実で頼りになる人。
そのまなざしはいつも凪いだ湖のように穏やかで、けれど今は、少しだけ揺れて見えた。
「彼女が嫌がっているようです。……無理に進めるのは、得策ではありません」
「悠真、おまえが口を挟むことではない」
「ですが、結婚は人生の選択です。数字では計れません」
父が眉をひそめる。
そんな中、悠真は一歩前に出て、まっすぐこちらを見つめた。
「もし社長がどうしてもこの縁談を進めたいとおっしやるのなら――」
息をのむ結奈の前で、彼は静かに言った。
「僕が、結奈さんと結婚します」
部屋の空気が一瞬で止まった。
父が呆然と彼を見る。結奈もまた、息をするのを忘れた。
「な、何を言ってるの、悠真さん……!?」
「形式的なものです。……彼女が望むなら、“契約”としてでも構わない」
父が深くため息をつく。
「おまえ、何を考えている」
「社長に仕えてきた七年間。結奈さんのこともずっと見てきました。彼女がどんな人か、誰より知っているつもりです」
その声は穏やかで、けれどどこかに熱を含んでいた。
結奈は混乱していた。
冗談のつもり? それとも――本気?
けれどその時、悠真の瞳に“本気の色”が宿っているのを見てしまった。
「……そんなの、偽装結婚よ」
「ええ。偽りでも構いません。――けれど俺は、誰にも渡したくない」
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
ただ胸の奥で、何かが静かに鳴った。
翌週、二人の“契約結婚”は社内でも極秘で行われた。
指輪だけが、静かに光る。
誰にも知られないように――まるで、沈黙の誓いのように。
だがこの瞬間、結奈はまだ知らなかった。
その沈黙が、やがて自分の心を締めつける鎖になることを。
そして、“絶対に好きにならない”と誓った男に、恋をしてしまうことを――
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