『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』
第9章「彼女の秘密」
白い花束はまだ、リビングの窓辺に飾られていた。
百合の香りが柔らかく漂い、部屋を包む。
あの日から、二人の間には言葉少ない穏やかな時間が戻っていた。
けれど、それはどこか脆い均衡だった。
食卓で向かい合っても、会話は天気や仕事の話ばかり。
まるでお互いに、踏み込むことを恐れているようだった。
「花、もう少しで枯れそうね」
「明日、新しいのを買ってくる」
「……ありがとう」
短い言葉のやり取り。
それでも、心の奥では何かがずっと疼いていた。
――このままじゃいけない。
私、また「誰かを好きになる」気持ちを知らないまま終わってしまう。
(でも本当はもう‥)
翌週末、結奈は会社の後輩に誘われて、
“ビジネス交流会”という名の婚活イベントに参加することにした。
「たまには気分転換しましょうよ、間宮先輩!」
「……ただの交流会、よね?」
「もちろんです! 堅苦しい感じじゃなくて、お茶を飲みながら話すだけですから」
そう言われても、胸の奥でざらりとした罪悪感が拭えなかった。
悠真の顔が浮かんでしまう。
――けれど、これは契約。恋愛も自由。
そのはずなのに、どうして言い訳みたいに思えてしまうのだろう。
会場は都心のホテルラウンジだった。
ジャズが静かに流れ、テーブルには名札と紅茶のカップ。
華やかな笑い声が響く中、結奈は緊張したように小さく息を吸った。
「間宮結奈さん、ですね?」
声をかけてきたのはスーツ姿の男性。柔らかな笑顔と、落ち着いた声。
初対面なのに、どこか安心するような雰囲気だった。
「ええ、よろしくお願いします」
穏やかな会話。
他愛もない仕事の話。
けれど、自分が“誰かとこうして向き合っている”ことに、どこか現実感がなかった。
そのとき、ふと背中に視線を感じた。
振り返ると――
入り口の近くに、見慣れた黒のスーツ。
心臓が跳ねた。
悠真が立っていた。
信じられない。
目が合った瞬間、彼はゆっくりと歩み寄ってくる。
その静かな足音が、胸の鼓動と重なった。
「――部下の勤務先を確認しに来ただけです」
淡々とした口調。
だがその声の奥に、抑えた感情が見えた。
「……どうしてここが分かったの?」
「君の後輩から、偶然聞いた」
「偶然……?」
「“交流会”って言葉に、違和感があった」
彼の視線が、テーブルの名札と紅茶のカップを一瞥する。
その目は、怒りではなく――痛みを含んでいた。
「君は本気で、誰かを探してるんだな」
「……ええ」
「俺がいるのに」
「あなたとは“契約”だから」
「じゃあ、その契約、今すぐ終わらせようか?」
結奈は息を呑む。
「何を言って――」
「俺が“夫”でいる限り、君は自由になれないんだろ」
静かな声。けれど、その奥には震えるほどの悲しみがあった。
「俺が君を縛ってるなら、もう終わりにする」
「……そんな言い方、ずるいです」
「ずるくてもいい。俺はもう、君が他の男と笑ってるのを見たくない」
その言葉に、心臓が痛くなる。
逃げ出したいのに、足が動かない。
「……どうして、そんな顔するんですか」
「君が、俺の“秘密”を知らないから」
「秘密?」
「俺は最初から、“契約”なんて思ってなかった」
その一言が、胸の奥で爆ぜた。
気づけば、結奈は涙をこらえながら会場を飛び出していた。
外はもう夜。
街の灯が滲み、風が冷たい。
数時間後、家のドアを開けると、
テーブルの上には冷めた紅茶と、
あの白い花束が静かに置かれていた。
――まるで、彼の気持ちを代弁するように。
花は少しだけ色褪せていた。
けれど、その香りはまだ、優しかった。
百合の香りが柔らかく漂い、部屋を包む。
あの日から、二人の間には言葉少ない穏やかな時間が戻っていた。
けれど、それはどこか脆い均衡だった。
食卓で向かい合っても、会話は天気や仕事の話ばかり。
まるでお互いに、踏み込むことを恐れているようだった。
「花、もう少しで枯れそうね」
「明日、新しいのを買ってくる」
「……ありがとう」
短い言葉のやり取り。
それでも、心の奥では何かがずっと疼いていた。
――このままじゃいけない。
私、また「誰かを好きになる」気持ちを知らないまま終わってしまう。
(でも本当はもう‥)
翌週末、結奈は会社の後輩に誘われて、
“ビジネス交流会”という名の婚活イベントに参加することにした。
「たまには気分転換しましょうよ、間宮先輩!」
「……ただの交流会、よね?」
「もちろんです! 堅苦しい感じじゃなくて、お茶を飲みながら話すだけですから」
そう言われても、胸の奥でざらりとした罪悪感が拭えなかった。
悠真の顔が浮かんでしまう。
――けれど、これは契約。恋愛も自由。
そのはずなのに、どうして言い訳みたいに思えてしまうのだろう。
会場は都心のホテルラウンジだった。
ジャズが静かに流れ、テーブルには名札と紅茶のカップ。
華やかな笑い声が響く中、結奈は緊張したように小さく息を吸った。
「間宮結奈さん、ですね?」
声をかけてきたのはスーツ姿の男性。柔らかな笑顔と、落ち着いた声。
初対面なのに、どこか安心するような雰囲気だった。
「ええ、よろしくお願いします」
穏やかな会話。
他愛もない仕事の話。
けれど、自分が“誰かとこうして向き合っている”ことに、どこか現実感がなかった。
そのとき、ふと背中に視線を感じた。
振り返ると――
入り口の近くに、見慣れた黒のスーツ。
心臓が跳ねた。
悠真が立っていた。
信じられない。
目が合った瞬間、彼はゆっくりと歩み寄ってくる。
その静かな足音が、胸の鼓動と重なった。
「――部下の勤務先を確認しに来ただけです」
淡々とした口調。
だがその声の奥に、抑えた感情が見えた。
「……どうしてここが分かったの?」
「君の後輩から、偶然聞いた」
「偶然……?」
「“交流会”って言葉に、違和感があった」
彼の視線が、テーブルの名札と紅茶のカップを一瞥する。
その目は、怒りではなく――痛みを含んでいた。
「君は本気で、誰かを探してるんだな」
「……ええ」
「俺がいるのに」
「あなたとは“契約”だから」
「じゃあ、その契約、今すぐ終わらせようか?」
結奈は息を呑む。
「何を言って――」
「俺が“夫”でいる限り、君は自由になれないんだろ」
静かな声。けれど、その奥には震えるほどの悲しみがあった。
「俺が君を縛ってるなら、もう終わりにする」
「……そんな言い方、ずるいです」
「ずるくてもいい。俺はもう、君が他の男と笑ってるのを見たくない」
その言葉に、心臓が痛くなる。
逃げ出したいのに、足が動かない。
「……どうして、そんな顔するんですか」
「君が、俺の“秘密”を知らないから」
「秘密?」
「俺は最初から、“契約”なんて思ってなかった」
その一言が、胸の奥で爆ぜた。
気づけば、結奈は涙をこらえながら会場を飛び出していた。
外はもう夜。
街の灯が滲み、風が冷たい。
数時間後、家のドアを開けると、
テーブルの上には冷めた紅茶と、
あの白い花束が静かに置かれていた。
――まるで、彼の気持ちを代弁するように。
花は少しだけ色褪せていた。
けれど、その香りはまだ、優しかった。