『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

第10章「誤解の夜」


 夜の街を歩きながら、結奈は自分の足音だけを聞いていた。
 どこへ行けばいいのか分からなかった。
 冷たい風が頬をなでるたび、涙が乾いていく。

 ――あの人、私を責めたわけじゃない。
 ただ、悲しそうだった。
 まるで、自分の中の何かを手放そうとしているような。

 けれど、どうしても許せなかった。
 「契約を終わらせよう」なんて、まるで全部を否定されたみたいで。



 家に戻ると、部屋の灯りはすでについていた。
 玄関に並ぶ革靴。
 リビングからは低い話し声が聞こえる。

 ――誰かいる?

 そっと覗くと、悠真が携帯電話を耳に当てていた。
 ソファには女性物のハンドバッグ。
 淡い香水の香りが、部屋の中に残っている。

 胸が一気に冷たくなった。

「……すみません、後で折り返します」
 悠真が電話を切る。
 振り返った彼の手には、女性の名刺。
「社長の奥様が来てた。明日の式典の件で」
 説明は短く、淡々としていた。
 けれど、その冷静さがかえって苦しかった。

「――香水の匂いがします」
「打ち合わせの時に隣に座ってたから」
「そう……」
 それ以上、言葉が出なかった。

 自分の胸の中で、何かが静かに崩れていく。



 その夜。
 リビングに並んで座っているのに、まるで別の世界にいるようだった。
 テレビの音が遠い。
 ふたりの間に置かれた花束だけが、唯一の色。

「……今日は、どこへ行ってた?」
「友達と会ってたわ」
「そうか」
 それだけ。
 彼はそれ以上、何も聞かない。
 結奈ももう、何も言えなかった。

 沈黙が重くのしかかる。
 やがて悠真が立ち上がり、上着を取る。
 その仕草の途中、ふと見えた。
 背広の襟元に、淡いピンク色の口紅の跡。

 息が止まる。
 頭の中が真っ白になる。

「……誰かに、触れられたんですね」
「何の話だ?」
「そのスーツ……」
 悠真が一瞬、動きを止める。
 けれど、すぐに視線を逸らした。
「誤解だ」
「誤解?」
「たまたま……」
「“たまたま”って、何ですか!」
 声が震える。
 胸が痛くて、立っていられなかった。

「あなた、あの時言いましたよね。“恋をするなら俺にしろ”って。
 ――じゃあ、自分はどうなんですか」

 彼の喉がかすかに動いた。
「……俺は何もしてない」
「信じられません」
「信じろよ」
「信じられるわけない!」

 結奈の目から、涙があふれた。
 彼の顔がにじんで見えない。

「あなたが何をしてても、私には関係ない。だって私たち――契約夫婦でしょ」
「それを言うな」
 悠真の声が低く震える。
「……その言葉だけは、もう聞きたくない」

 それでも結奈は言葉を止められなかった。
 泣きながら、精一杯の強がりで。

「あなたなんか、最初から信じてなかった!」

 その瞬間、グラスが倒れ、琥珀色の液体が床に散った。
 沈黙。
 互いの呼吸の音だけが残る。

 悠真は何かを言いかけたが、結局、背を向けた。
 結奈も振り向けなかった。



 その夜、彼女はリビングのソファで眠れぬまま夜明けを迎えた。
 テーブルの上には、倒れたグラスと、色を失い始めた花束。

 紅茶の香りはもう消えていた。
 ――あの優しい香りのように
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