『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

第11章「すれ違う指先」

 翌朝、陽の光が白く滲んでいた。
 カーテンの隙間から差し込む光の中で、結奈はソファの上にうずくまっていた。
 紅茶の香りもしない、冷たい部屋。
 昨夜の言葉が何度も頭の中で繰り返される。

 ――「信じられるわけない」
 ――「その言葉だけは、もう聞きたくない」

 指先を見下ろすと、契約指輪が光を受けて淡く輝いていた。
 それは、まるで皮肉のようだった。



 キッチンに立つと、悠真がすでにコーヒーを淹れていた。
 背中を向けたまま、何も言わない。
 いつもよりも静かな朝。
 時計の針の音がやけに大きく響く。

「……おはようございます」
 自分でも驚くほど小さな声。
 悠真は一瞬だけ手を止め、ゆっくりと振り向いた。
「おはよう」
 その声には、何の温度もなかった。

 テーブルの上には、焼き立てのトーストとゆで卵。
 彼が用意したものだとすぐに分かった。
 それでも、
 「ありがとう」
 その一言が言えなかった。

 彼はコーヒーを飲みながら、新聞をめくる。
 結奈は紅茶を淹れようとポットを持つ。
 けれど、手が震えて、カップの縁から湯がこぼれた。

「熱っ……」
 思わず声を上げると、悠真が反射的に近づいた。
「大丈夫か」
 伸ばされた指先が、結奈の手に触れる。
 その一瞬。
 まるで時間が止まったように、呼吸が止まった。

 けれど彼はすぐに手を引いた。
「火傷はない」
「……はい」
 わずかに間が空いたその瞬間、二人の心がすれ違った。



 会社でも、同じだった。
 会議室ですれ違っても、
 打ち合わせの資料を渡しても、
 互いに目を合わせようとしない。

「一条さん、これサインお願いします」
「そこに置いておいてくれ」
 必要最低限の会話だけ。
 まるで、職場の上司と部下に戻ったようだった。

 けれど、夜になると決まって同じ家に帰る。
 同じドアをくぐり、同じ部屋に座り、
 まるで空気だけが会話を続けているようだった。



 そんな日々が数日続いたある夜。
 仕事帰りに買い物をして帰る途中、突然の雨が降り出した。
 傘を持っていなかった結奈は、慌ててコンビニの軒下に駆け込む。
 濡れた肩が冷たい。
 指先がかじかむ。

「……やっぱり、私、バカみたい」
 小さく呟いた時、黒い傘が目の前に差し出された。
 顔を上げると、悠真が立っていた。
「置き傘があった」
「……ありがとうございます」
「別に」
 短い会話。
 けれど、その傘の下には、確かに二人の影が並んでいた。

 家に着くころには、雨もやんでいた。
 玄関の明かりが灯る。
 傘を閉じようとした瞬間、彼の手と彼女の手がまた触れた。

 ――ほんの一瞬。

 けれど、その温度だけで、
 涙がこぼれそうになった。

「結奈」
 名前を呼ぶ声は、かすかに震えていた。
 けれど、次の言葉はなかった。
 彼もまた、何を言えばいいのか分からないように、静かに視線を落とした。



 その夜。
 ベッドの中で、結奈は指輪を外して手のひらに乗せた。
 冷たく、軽いはずのその輪が、どうしてこんなに重いのだろう。

 ――ほんの少しでいい、もう一度、あの指先に触れたい。

 眠れぬ夜の中で、
 結奈の胸の奥に、ようやく確かな痛みが生まれていた。

 それは、ようやく芽を出した“恋”の形をしていた。
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