『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

第12章  真夜中の帰還

 その夜は、やけに風が強かった。
 秋の気配が混じり始めた夜風が、ベランダの鉢植えを揺らしている。

 結奈は寝室の灯りを消し、ベッドに横たわった。
 けれど、眠れない。
 脳裏に浮かぶのは、冷たい視線のまま職場ですれ違った悠真の姿。
 もう何日、まともに話していないだろう。

 ――このまま終わってしまうのかな。

 そう思いかけた瞬間だった。
 玄関のほうから、かすかな物音がした。

「……悠真さん?」
 時計は午前二時を指している。
 急いでリビングへ向かうと、ドアの前に誰かの影が見えた。

 玄関の扉がゆっくりと開き、黒いスーツのままの悠真が立っていた。
 その姿を見た瞬間、息が止まった。
 顔色が悪い。
 濡れた髪、乱れたネクタイ、足元がふらついている。

「悠真さん……どうしたんですか!」
「……ちょっと、仕事が……長引いて……」
 言い終える前に、彼の身体がふらりと傾いた。

「悠真さん!」
 結奈は慌てて支える。
 熱い。
 腕を握った瞬間、異様な体温の高さに気づいた。

「嘘……こんなに熱があるのに……」
 彼の身体を抱きかかえるようにして、ソファまで連れていく。
 額に手を当てると、熱が掌に伝わってきた。

 すぐに体温計と冷たいタオルを取りに走り、戻ると、彼は浅い呼吸を繰り返していた。
「無理して……どうしてこんなになるまで……」
「……明日、会議が……」
「会議より自分の体のほうが大事です!」
 涙がにじむ。
 怒っているのか、心配しているのか、自分でもわからなかった。

 タオルを絞り、彼の額にそっと当てる。
 その瞬間、悠真の唇がかすかに動いた。
「……ゆきな」
 かすれた声。
 久しぶりに呼ばれた名前だった。

 心臓が跳ねる。

「はい、ここにいます。もう喋らないで」
「……君が、泣く夢を見た」
「夢?」
「俺のせいで、泣いてた」
「そんなこと……」
 結奈は言葉を飲み込んだ。
 胸の奥が熱くなっていく。

「……俺、君のこと……好きなんだよ。ずっと」
 その言葉は、熱に浮かされた呟きだった。
 けれど、どんな告白よりも真実のように響いた。

「――そんなの、ずるい」
 思わず声が震える。
「こんな時に……そんなこと言われたら、困るのに」

 彼は答えず、眠るように目を閉じた。
 その表情は苦しそうで、それでもどこか穏やかだった。



 夜が明けるまで、結奈は一睡もせず、彼のそばに座っていた。
 濡らしたタオルを何度も取り替えながら、
 指先でそっと彼の髪を撫でる。

「あなたは、倒れるまで頑張る人だって、知ってた。
 ……でも、どうして私に頼ってくれないの」

 その声は誰に向けたのか、自分でもわからなかった。
 ただ、心の奥から自然に零れていた。

 夜明け前、ようやく熱が少し下がり、彼の呼吸が落ち着いた頃――
 結奈は、彼の手を取った。
 温かい手。
 何度もすれ違ってきた指先。

 ――この手を、離したくない。

 そう思った瞬間、涙が静かに頬を伝った。

「……好き、なんです。たぶん、ずっと前から」
 誰にも聞こえない声で呟く。
 その告白は、夜明けの光と共に静かに消えていった。



 朝。
 窓から差し込む光が白いカーテンを透かしていた。
 目を覚ました悠真が、ゆっくりと身を起こす。
 ソファのそばには、眠ったまま寄り添う結奈の姿。
 彼女の頬には乾いた涙の跡。

 悠真はそっと微笑んだ。
 指先で、彼女の髪を撫でる。
 その指がかすかに震えていた。

 ――ようやく触れられた。
 何度もすれ違った指先が、ようやく、同じ温度を持った。
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