『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

第14章「嵐の週末」

 金曜日の朝。
 いつもよりも柔らかな光が差し込んでいた。
 昨夜の記憶が夢のように胸の奥で温かく残っている。

 ――あの人が、私を愛してると言った。
 その言葉を何度思い出しても、現実だとは信じられなかった。
 けれど、指先に残る温もりだけが確かな証拠だった。

 鏡の前で髪を整えながら、結奈は小さく笑う。
 ほんの少しだけ、世界が優しく見えた。



 オフィスに入ると、同僚たちのざわめきが耳に届いた。
「ねえ聞いた? 一条さんが社長令嬢と……」
「まさか。あの人、社内でも完璧で通ってるのに」
「でも、今朝の車、見た人がいるって」

 足が止まった。
 心臓が一瞬で早鐘を打つ。
 ――まさか。

「おはようございます」
 声のしたほうを見ると、悠真がいつものように穏やかに立っていた。
 けれど、その笑顔の奥に、どこか張り詰めたものを感じた。

「おはよう。……噂、聞いたか?」
「ええ、少し」
「放っておけ。いずれ消える」
 淡々とした口調。
 それでも、その瞳の奥に沈んだ影を、結奈は見逃さなかった。



 昼休み、資料室に坂口が入ってきた。
「間宮さん、少しいいですか?」
「はい?」
 彼は妙に優しい笑みを浮かべていた。
「正直、びっくりしました。社長秘書の一条さんと……そういう関係だったなんて」
「違います」
「でも、社内ではもう噂が広まってますよ。
 “秘書が令嬢を口説いた”って」

 その言葉に、結奈の顔から血の気が引いた。

「それ、誰が……」
「詳しくは知りません。でも、あの写真のせいかもしれません」
「写真?」
 坂口が差し出したスマートフォンの画面。
 そこには、数日前の雨の夜――
 悠真が傘を差して結奈を庇っている姿が映っていた。
 まるで抱きしめているように見える角度だった。

「……こんな……」
「俺は信じてますよ。間宮さんは騙されてるだけだって」
「騙されてなんて、いません!」
 思わず声を荒げると、坂口が肩をすくめた。
「本気なんですね」
「……はい」
 その一言で、彼の表情が曇った。
 沈黙が重く落ちる。



 午後、社長室に呼ばれた。
 父がデスクの前に座っている。
 その隣に立つのは――悠真だった。

「結奈。噂は本当か?」
「噂……?」
「おまえと悠真が、婚姻契約を超えて“恋人関係”にあるという話だ」
 父の声は冷たかった。
 結奈は息を呑む。

「誰がそんなことを……」
「問題は誰が言ったかではない。
 会社の信用に関わる。
 悠真、君も分かっているだろう」
「……はい」
 悠真は視線を落としたまま、硬い声で答えた。

「父さん、違うんです。悠真さんは何も――」
「結奈」
 その声に、彼女は言葉を止めた。
 悠真がまっすぐこちらを見ていた。
「社長のご判断に従います」
「……え?」
「僕の不徳です。責任を取って、退職願を提出します」

 結奈の世界が一瞬で崩れた。

「待ってください! そんな必要――」
「これ以上、君に迷惑をかけたくない」
「迷惑なんて思ってません!」
「君のためだ」
「嘘です。あなたは、また私から逃げようとしてる!」

 声が震えた。
 けれど悠真は、表情ひとつ変えないまま頭を下げた。
「お世話になりました。これで失礼します」

 彼が扉に向かって歩き出す。
 その背中を、結奈は追いかけることができなかった。

 足が震えて、声が出なかった。



 外では、また雨が降り始めていた。
 ガラス越しに見える街の景色が滲む。

 ――あの人は、いつも雨の日にいなくなる。

 結奈は拳を握りしめた。
 窓の外の空に向かって、静かに呟く。

「……逃がさない。今度は、私があなたを探しに行く」

 雨の音が強くなり、
 まるで新しい嵐の始まりを告げているようだった。
< 15 / 21 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop