『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

第15章「契約の終わり」

 ――土曜日の朝。
 雨上がりの空は灰色で、風が少し冷たかった。

 テーブルの上に置かれた一枚の封筒。
 それは、悠真が昨夜書き残していった退職願だった。
 白い便箋の角に丁寧な文字で「一条悠真」と署名されている。

 結奈はそれを握りしめたまま、声を出せなかった。
 ――これで本当に終わるの?
 頭では理解しても、心が拒んでいた。

 寝室の扉を開けると、もう悠真の姿はなかった。
 スーツもネクタイも、整然と畳まれていない。
 急いで出て行ったのだとすぐにわかる。

「どうして……どうして何も言わずに」
 唇が震えた。

 玄関の外には、昨夜の雨に濡れた傘がひとつ残されていた。
 それは、あの夜二人で使った黒い傘。
 その傘を抱きしめた瞬間、結奈の胸に強い衝動が走った。

「行かなきゃ」



 会社に着く頃には、すでに午前十時を過ぎていた。
 休日のオフィスは静まり返っている。
 しかし、専務室の前だけは灯りがついていた。

 扉の隙間から、低い声が聞こえる。
「……君の働きには感謝している、一条くん」
「ありがとうございます」
「だが、社としては君を庇いきれない」
「承知しています」

 叔父の声と、悠真の静かな返事。
 その冷たく均衡した会話が、結奈の心を切り裂く。

 もう、聞いていられなかった。
 結奈は扉を開けた。

「待ってください!」

 ふたりの視線が、一斉に彼女に向く。
 結奈は震える声で言った。

「この結婚は――私が望んだことです!」
「結奈!」
「叔父様が知らないところで私がお願いしました。
 お見合いを避けたくて……でも、もうそれだけじゃない。
 私は、一条さんを愛しています!」

 室内の空気が凍りついた。
 叔父はゆっくりと立ち上がり、机越しに娘を見つめる。
「結奈……それは本気で言っているのか?」
「はい」
「だが、彼は――」
「関係ありません! たとえ彼が秘書でなくても、同じように好きになります!」

 言葉が涙と一緒に溢れた。
 悠真は動けずにいた。
 彼女の告白が、まるで刃のように胸に突き刺さる。

「俺は、社の信頼を――」
「信頼よりも、私はあなたを失うほうが怖いです!」

 静寂。
 叔父は深く息を吐いた。
「……結奈、おまえがここまで言うとは思わなかった」
 そして、ゆっくりと悠真を見た。
「――結婚を公表しよう」

「……え?」
「どうせ隠し通せることではない。
 君たちが本当に互いを想っているなら、堂々と認めればいい。
 ただし――覚悟はしておけ。
 世間も、社員も、おまえたちを許さないかもしれん」

 結奈は涙を拭い、強く頷いた。
「覚悟しています」
 悠真も静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」



 専務室を出たあと、廊下にふたりきりになった。
 結奈は胸に手を当てたまま、小さく笑った。
「これで、“契約”は終わりですね」
「……そうだな」
「でも、終わりっていうより――やっと、始まりかも」

 悠真は彼女の言葉に目を細める。
 指先が、そっと彼女の頬に触れた。
 その手は少し震えていたけれど、確かに温かかった。

「君がここまで言うなんて、思ってもいなかった」
「あなたが教えてくれたんです。
 恋は怖いけど、逃げたら何も残らないって」

 外ではまた風が吹き、ガラス窓がわずかに震えた。
 けれど、もうふたりの心は揺れなかった。

 ――契約で結ばれた指輪が、ようやく“愛”に変わる音がした。
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