『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

第16章「公開の朝」


 朝の空気が少し冷たい。
 けれど、結奈の心は妙に静かだった。
 ――もう隠さない。
 今日、会社に出るとき、初めて指輪を外さずに家を出た。
 淡いゴールドの輪が、朝日に小さく光っている。

 リビングのテーブルには、新聞が一面に広げられていた。
 その見出しには、
 「間宮グループ社長令嬢、秘書と極秘結婚」
 という文字。
 まるで誰かの悪意を煽るように書かれた記事。

 記事の下には、
 あの雨の夜の写真。
 悠真が傘を差して結奈を庇っている。
 まるで抱き寄せているように見える一瞬の構図。

 心臓が強く鳴った。

 悠真はダイニングに立ち、沈黙のまま新聞を見ていた。
「誰が流したんでしょうか」
「……内部の人間だろうな」
 短い返事。
 その声の奥に、怒りと諦めが混ざっていた。

「会社には行くんですか?」
「ああ。行かないと、逃げたことになる」
「私も行きます」
「いや、今日は休め」
「行きます」
 彼の言葉を遮るように、結奈ははっきり言った。
 その瞳に、迷いはなかった。
「逃げるのはもう終わりにします。あなたを守りたいんです」

 悠真は一瞬、目を見張った。
 そして、小さく笑った。
「……君、強くなったな」
「あなたが弱いままだからです」
「それは否定できないな」

 軽く笑い合ったあと、ふたりは並んで玄関に立った。
 同じ靴音を響かせ、同じ空気を吸う。
 ――初めて、本当の夫婦になった気がした。



 会社に着くと、すでに社員たちがざわめいていた。
 エントランスには報道関係者の姿もある。
 フラッシュが光り、記者の声が飛ぶ。

「お二人は本当に結婚されていたんですか!」
「交際期間はいつからですか!」
「政略結婚ですか、それとも恋愛ですか!」

 結奈は一瞬怯みそうになったが、
 悠真がそっと手を握った。
 その指の温もりが、全てのざわめきを消していく。

「静かに」
 彼の低い声。
 記者たちのざわめきが、ほんの一瞬止まる。

「結婚は事実です。
 ですが、これは会社の方針ではなく――
 お互いの意志で決めたことです」

 短く、正確に、そして誇りをもって。
 それが悠真の答えだった。

 記者の声が再び上がる。
「社長はご存じだったんですか?」
「反対は?」

 そのとき、後方から落ち着いた声が響いた。
「――私が許可した」

 振り向くと、父が立っていた。
 堂々とした姿で前に出ると、記者たちが息を呑んだ。

「この結婚は、確かに社の体面を揺るがすかもしれない。
 だが、私の娘が選んだ男だ。
 それを恥じるような企業にはしたくない」

 ざわめきが静まる。
 父の言葉に、悠真が静かに頭を下げた。
 結奈の胸に温かいものが込み上げた。



 その日の午後。
 社長室の窓から見える空は、久しぶりに晴れていた。
 会見の後、外に出ると同僚たちが廊下に立っていた。
 ざわざわとした空気の中で、一人が小さく言った。

「……おめでとうございます」

 その一言に、空気が変わった。
 拍手が起こる。
 それは義務ではなく、祝福の音だった。

 結奈は涙をこらえながら微笑んだ。
 その隣で悠真も、小さく頷いた。

「やっと……本当の朝ですね」
「そうだな」
「もう“契約”じゃない」
「ああ、もうどこにも逃げない」

 彼の指が結奈の指に重なり、
 窓から差す光が、ふたりの影を一つに繋げた。

 ――嵐のあとに訪れた朝は、静かで、確かな愛の色をしていた。
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