『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

第18章「父の遺言」

 病室の灯りが薄暗く落ちる午後。
 結奈はベッドの傍に座り、父の手を握っていた。
 モニターの電子音が規則正しく鳴っている。
 穏やかなその音が、かえって不安を煽る。

「お父様、もうすぐ検査の時間です」
「ああ……大丈夫だ。少し話をしたい」
「話?」
 父の声はかすかに掠れていたが、その眼差しにはまだ確かな力が宿っていた。

「結奈、机の引き出しに封筒がある。……“遺言書”だ」
「そんな……やめてください、縁起でもない」
「いいんだ。いつ何があってもいいように、きちんと残しておく。
 家のこと、会社のこと、そして――おまえのことを」

 その言葉に、結奈の手が震えた。

「お父様……私、お父様の言いつけを守れなかった」
「何のことだ?」
「秘書と恋をしてはいけないって、知ってたのに……」
 涙声で言うと、父は微笑んだ。
「人を好きになることを“守るべき規則”なんて呼ぶな」
「でも、会社に迷惑を――」
「迷惑をかけてもいいんだ。
 本当に愛しているなら、必ず取り戻せる」

 その瞬間、結奈の胸に何かが灯った。
 父の手の温もりが、まるで“赦し”のように感じられた。



 翌朝。
 父から、茶封筒が届けられた。
 宛名には、「間宮結奈・一条悠真」と並んで書かれている。

 ふたりで封を開けると、中には父の筆跡の書類と、
 一通の手紙が入っていた。

『この遺言は、もし私に何かあった場合に発効される。
悠真、おまえには会社の経営権の一部を託す。
ただし条件がある。
結奈が幸せでないと感じた時点で、その権利は即刻失効とする。
彼女の涙を一度でも見せたら、その瞬間に去れ。
“愛する”とは、守ることだ――それを忘れるな。
間宮隆臣』

 静かな部屋の中で、紙の擦れる音だけが響く。

 悠真は長い間、何も言えなかった。
 手紙の文字が、視界の奥でにじんでいた。

「……お父さまらしいですね」
 結奈が微笑もうとしたが、その唇は震えていた。
「どこまでも、厳しいんだから」
「いや……優しい人だった」
 悠真の声が、かすかに掠れた。

「“結奈が泣いたら去れ”か……厳しい条件だ」
「泣きません。泣かないようにします」
「でも、君は優しすぎる。無理して笑うから、きっとすぐに気づかれる」
「それでもいい。私、あなたと一緒にいたい」

 言い終えると、結奈は小さく息を吸い、まっすぐ彼を見つめた。
 その瞳には、もう迷いがなかった。

「だから、泣くのはあなたのほうです」
「俺が?」
「お父様の遺言を破ってでも、私を守る覚悟をして」

 悠真の喉が詰まる。
 気づけば、結奈を抱きしめていた。
 強く、まるでその存在を刻み込むように。

「……間宮隆臣には敵わないな」
「お父様、ちゃんと見てますね。私たちのこと」
「見られてると思うと、ますます格好つけられない」
「格好悪くていいです。嘘のない愛のほうが、ずっと強い」

 窓の外では、朝の光が眩しく広がっていた。
 遠くで鐘の音が響く。

 ――父が残した遺言は、罰ではなく、
 これからを生きるための“誓い”だった。

 ふたりは互いの手を取り合い、
 静かにその誓いを胸に刻んだ
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