『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』
第1章「偽りの契約」
結婚式と呼ぶには、あまりに静かな日だった。
参列者はごくわずか。形式だけの署名と判子。
結奈は白いスーツをまとい、緊張で手の先まで冷えていた。
「これで、契約成立ですね」
書類を閉じた悠真が、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。……助かりました」
ようやく絞り出した声が震える。
彼は首を横に振る。
「助けたつもりはない。結奈さんがそう望んだから」
彼の視線がまっすぐすぎて、結奈は少し顔を背けた。
偽りの結婚――それは、自由を守るための方便。
“本物の恋”をするために選んだ、仮の指輪。
けれど指に触れる銀の輪は、思ったより重かった。
帰りの車内。窓の外を流れる桜並木を眺めながら、結奈は小さく呟いた。
「お互い、不倫自由の約束だからね」
「覚えてる」
「私、恋をしてみたいの。運命の人を見つけて、本当に好きになってみたい」
その言葉に、彼は一瞬だけ口を閉ざした。
「……恋、か」
低く洩らした声には、かすかな痛みが滲んでいた。
気づかないふりをして、結奈は笑う。
「悠真さんも、自由に恋愛していいんだからね」
「それは困るな」
「え?」
「俺は、結婚している身だから」
冗談だと思って笑おうとした。けれど彼は笑っていなかった。
車の中に沈黙が落ちる。
遠く、信号が青に変わる音だけが響く。
――偽りのはずなのに、なぜ胸が痛いのだろう。
翌朝。
間宮邸の一角、結奈の新しい部屋には、すでに悠真の整えた生活の痕跡があった。
白いマグカップが二つ、向かい合わせに置かれ、朝の光がその縁を照らす。
スーツ姿の彼がコーヒーを淹れていた。
「ブラックでいい?」
「あ、うん……ありがとう」
「今後のことを少し話そう。生活費は折半にしよう」
「え? でも、あなた秘書なのに……」
「俺のほうが年上だし、多少の蓄えはある。それに――」
彼は視線を落とし、カップを置く。
「“夫”として最低限の責任は果たしたい」
夫。
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、鼓動が跳ねた。
形式だけの結婚だと何度も自分に言い聞かせているのに、
“夫”という音に、妙な温度が宿ってしまう。
気まずくなって、結奈は話題を変えた。
「じゃあ、ルールを決めましょう。干渉しない。お互い、自由に恋愛していい」
「……不倫も、自由に?」
「ええ」
彼は小さく笑った。
「君、思ったより強いんだな」
「強くならないと、生きていけないもの」
その微笑みの裏で、彼の瞳がかすかに翳るのを結奈は見逃していた。
夜。
リビングに灯る薄明かりの中で、悠真はひとり資料を広げていた。
仕事に没頭する背中は、いつものように冷静で、完璧で。
だけど、ふと目を伏せた瞬間、彼の指先が結婚指輪をそっと撫でた。
――“不倫自由”の契約か。
そんなもの、最初から結奈に守れるはずがない。
彼は知っていた。
彼女が恋を知らないまま、それでも“恋”に憧れていることを。
「俺以外なんて、誰にも恋なんてしてほしくない」
声にならない独白が、静かな部屋に落ちる。
その願いが叶う日は、まだ遠い。
そして、二人の“偽りの契約”は、この夜から静かに狂い始めた。
参列者はごくわずか。形式だけの署名と判子。
結奈は白いスーツをまとい、緊張で手の先まで冷えていた。
「これで、契約成立ですね」
書類を閉じた悠真が、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。……助かりました」
ようやく絞り出した声が震える。
彼は首を横に振る。
「助けたつもりはない。結奈さんがそう望んだから」
彼の視線がまっすぐすぎて、結奈は少し顔を背けた。
偽りの結婚――それは、自由を守るための方便。
“本物の恋”をするために選んだ、仮の指輪。
けれど指に触れる銀の輪は、思ったより重かった。
帰りの車内。窓の外を流れる桜並木を眺めながら、結奈は小さく呟いた。
「お互い、不倫自由の約束だからね」
「覚えてる」
「私、恋をしてみたいの。運命の人を見つけて、本当に好きになってみたい」
その言葉に、彼は一瞬だけ口を閉ざした。
「……恋、か」
低く洩らした声には、かすかな痛みが滲んでいた。
気づかないふりをして、結奈は笑う。
「悠真さんも、自由に恋愛していいんだからね」
「それは困るな」
「え?」
「俺は、結婚している身だから」
冗談だと思って笑おうとした。けれど彼は笑っていなかった。
車の中に沈黙が落ちる。
遠く、信号が青に変わる音だけが響く。
――偽りのはずなのに、なぜ胸が痛いのだろう。
翌朝。
間宮邸の一角、結奈の新しい部屋には、すでに悠真の整えた生活の痕跡があった。
白いマグカップが二つ、向かい合わせに置かれ、朝の光がその縁を照らす。
スーツ姿の彼がコーヒーを淹れていた。
「ブラックでいい?」
「あ、うん……ありがとう」
「今後のことを少し話そう。生活費は折半にしよう」
「え? でも、あなた秘書なのに……」
「俺のほうが年上だし、多少の蓄えはある。それに――」
彼は視線を落とし、カップを置く。
「“夫”として最低限の責任は果たしたい」
夫。
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、鼓動が跳ねた。
形式だけの結婚だと何度も自分に言い聞かせているのに、
“夫”という音に、妙な温度が宿ってしまう。
気まずくなって、結奈は話題を変えた。
「じゃあ、ルールを決めましょう。干渉しない。お互い、自由に恋愛していい」
「……不倫も、自由に?」
「ええ」
彼は小さく笑った。
「君、思ったより強いんだな」
「強くならないと、生きていけないもの」
その微笑みの裏で、彼の瞳がかすかに翳るのを結奈は見逃していた。
夜。
リビングに灯る薄明かりの中で、悠真はひとり資料を広げていた。
仕事に没頭する背中は、いつものように冷静で、完璧で。
だけど、ふと目を伏せた瞬間、彼の指先が結婚指輪をそっと撫でた。
――“不倫自由”の契約か。
そんなもの、最初から結奈に守れるはずがない。
彼は知っていた。
彼女が恋を知らないまま、それでも“恋”に憧れていることを。
「俺以外なんて、誰にも恋なんてしてほしくない」
声にならない独白が、静かな部屋に落ちる。
その願いが叶う日は、まだ遠い。
そして、二人の“偽りの契約”は、この夜から静かに狂い始めた。