『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

第19章「涙の誓い」

 冬の朝。
 薄曇りの空から、細い雪が静かに舞い落ちていた。
 病院の廊下は人の気配がなく、
 ただ電子音だけが、遠いリズムのように響いている。

 結奈は、父の枕元に座っていた。
 その手を包む指先が、少しずつ冷たくなっていく。
 白いシーツの上、父の顔は穏やかで――
 まるで深い眠りの中にいるようだった。

「お父様……起きて。ねえ……お父様……」
 呼びかけても、返事はない。
 胸の奥で何かが壊れる音がした。

 涙が滲む。
 でも――泣いてはいけない。
 遺言の言葉が、頭の中で蘇る。

『結奈が涙を見せたら、その瞬間に去れ。』

 ――泣いたら、悠真がいなくなる。

 唇を噛み、堪えた。
 視界が滲むのを、強く瞬きで押し返す。
 今泣くのは、彼を失うことになる。
 けれど、父の死を前にして涙を止めることなど、できるはずがなかった。

「……お父様……ありがとう」

 一粒の涙が、そっと頬を伝う。
 その瞬間、背後で扉が開く音がした。

 振り向くと、悠真が立っていた。
 黒いコートの肩に雪が残っていて、
 その目には深い悲しみが浮かんでいた。

「結奈……」
「お父様が……行っちゃったの」
 言葉にした瞬間、涙が溢れ出した。
 堰を切ったように、止まらない。

 悠真はすぐに彼女のもとへ来て、
 震える身体を抱き寄せた。

「いい……泣いていいんだ」
「でも……遺言に……」
「違う。あれは“俺たちの生活の中での涙”だ。
 俺が君を苦しませたときの涙――それだけが、俺の罰だ。
 これは違う。
 これは、娘としての涙だ。止めなくていい」

 結奈は顔を上げた。
「じゃあ……あなたは、いなくならない?」
「行かない。
 だって、今の君の涙は、悲しみの証じゃなくて――愛の証だ」

 その言葉に、胸の奥が熱くなる。
 涙が、静かに頬を伝う。
 彼はそれを拭おうとせず、ただそのまま受け止めた。

「……泣かせないって、誓ったのに」
「泣いていいって、今は言ってくれたから」
 小さく笑った彼女の瞳に、確かな光が宿っていた。



 葬儀の日、冬の空は重く曇っていた。
 白い花に囲まれた棺の前で、結奈は手を合わせた。
 その隣に、悠真が静かに立っている。
 誰もが見守る中、二人は目を合わせずとも、
 同じ思いを共有していた。

 ――泣いても、もう失わない。
 それが、新しい誓いだった。

 火葬の煙が空に昇る。
 見えなくなっていく白を見つめながら、結奈はそっと呟いた。

「お父様……私、ちゃんと幸せになるから」

 その声を、悠真が静かに受け止めた。
 そして、彼の手が彼女の指に触れた。
 温かい。
 その温もりが、これからの人生の証のように感じられた。



 夜。
 帰宅したあと、結奈は寝室の明かりを落とした。
 静かな部屋に、ふたりの影が重なる。

「……怖かったです」
「何が?」
「あなたがいなくなること。
 でも、今日わかったんです。
 “誓い”って、縛るものじゃなくて――支えるものなんですね」

 悠真は彼女の髪にそっと触れた。
「そうだ。
 誓いは“愛の契約”じゃなく、“共に生きる約束”だ」

 そのまま唇を寄せ、彼女の涙の跡に口づけを落とす。
 結奈は目を閉じ、静かに囁いた。

「お父様が見てたら、きっと呆れてますね」
「それでもいい。君が笑ってくれるなら」

 外では雪が降っていた。
 白い静寂が、夜の街を包み込む。
 その音のない世界の中で、
 二人の鼓動だけが確かに響いていた。

 ――“沈黙の誓い”は、涙で清められ、愛へと変わった。
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