『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』
第20章「沈黙の再会
三か月の時が過ぎた。
冬は終わり、街には春の気配が少しずつ戻っていた。
けれど結奈の心は、まだ冬のままだった。
父の葬儀からの日々。
仕事を続けながらも、夜になると無意識に玄関のほうを見てしまう。
帰ってくるはずの人の靴音を、何度も幻聴のように聞いた。
――あの日、彼は何も言わずに出ていった。
涙を抱きしめてくれたあと、翌朝にはいなかった。
残されたのは、テーブルの上の一通の手紙。
『結奈が笑えるようになるまで、俺は少し離れる。
泣き顔を見ないうちに、笑顔を取り戻してほしい。
そのとき、迎えに行く。
――一条悠真』
その字を何度もなぞりながら、結奈は自分に言い聞かせた。
“信じることも、愛の一つ”だと。
三か月目の朝。
会社帰りの足が、ふと止まった。
街のショーウィンドウには、新作のウェディングドレス。
白いレースの裾が、風に揺れている。
反射するガラスに、自分の顔が映った。
少し痩せたけれど、もう泣いていない。
目の奥には、あの日よりも強い光が宿っている。
――私、ちゃんと笑えるようになった。
心の中でそう呟いたその時、背後から声がした。
「……やっと、笑ったね」
振り向く。
そこに、悠真が立っていた。
薄いグレーのコート。
以前より少し髪が伸びて、顔がやつれて見える。
けれど、その目の奥の優しさは何も変わっていなかった。
「どうして……」
「約束、果たしに来た」
「……笑えるようになったから?」
「ああ。
でも本当は、君が笑うのを待っていた俺のほうが、
一番泣きたかった」
その言葉に、結奈の胸が熱くなる。
息が詰まり、涙が滲んだ。
「また泣かせるんですか?」
「今度は違う。
泣いてもいい。もう、“去らない”から」
その一言で、すべての時間が溶けていく。
結奈は一歩、彼に近づいた。
そして、もう一歩。
距離が消える。
腕の中に入った瞬間、心が震えた。
「……おかえり」
「ただいま」
短い言葉。
けれど、それがすべてだった。
その夜。
ふたりは並んで歩いた。
街路樹の下、白い花びらが舞い始めている。
沈黙の中に、風の音と心臓の鼓動だけがあった。
「ねえ、覚えてますか?」
「何を?」
「最初の夜。契約書にサインしたときのこと」
「ああ。
“お互いに不倫自由”って条件、笑えない冗談だったな」
「本気で信じてたんですよ、私」
「俺は、最初から信じてなかった」
「ずるい人」
「うん。でも、君が好きだったから」
結奈は笑った。
その笑顔に、悠真も微笑んだ。
沈黙が続く。
けれどその沈黙は、もう痛みではなかった。
互いの存在を確かめる、安らぎの沈黙。
帰り道、ふたりは小さな教会の前で足を止めた。
夜の光がステンドグラスに反射して、
静かに床を照らしている。
「ここ……お父様の葬儀の帰りに、通った場所だね」
「うん」
「誓いを、やり直そうか」
「え?」
悠真は、ポケットから小さな箱を取り出した。
開くと、そこには新しい指輪。
今度は、名前の刻印入り。
“Y&Y ― With tears, with love.”
「泣いても、笑っても。
どんな君も、俺の妻だ」
結奈の瞳から、また涙が零れた。
けれど、それは悲しみではなかった。
「それでも……いいんですか? また泣きますよ」
「構わない。
君が泣けるほどの愛を、これからもあげたい」
彼はその指に指輪をはめ、
そっと額に口づけた。
鐘が鳴った。
夜の空に響く、静かな音。
――もう、沈黙はいらない。
言葉にしなくても、誓いはここにある。
雪のような花びらが、ふたりの肩に舞い落ちた。
その瞬間、世界が少しだけ温かくなった気がした。
冬は終わり、街には春の気配が少しずつ戻っていた。
けれど結奈の心は、まだ冬のままだった。
父の葬儀からの日々。
仕事を続けながらも、夜になると無意識に玄関のほうを見てしまう。
帰ってくるはずの人の靴音を、何度も幻聴のように聞いた。
――あの日、彼は何も言わずに出ていった。
涙を抱きしめてくれたあと、翌朝にはいなかった。
残されたのは、テーブルの上の一通の手紙。
『結奈が笑えるようになるまで、俺は少し離れる。
泣き顔を見ないうちに、笑顔を取り戻してほしい。
そのとき、迎えに行く。
――一条悠真』
その字を何度もなぞりながら、結奈は自分に言い聞かせた。
“信じることも、愛の一つ”だと。
三か月目の朝。
会社帰りの足が、ふと止まった。
街のショーウィンドウには、新作のウェディングドレス。
白いレースの裾が、風に揺れている。
反射するガラスに、自分の顔が映った。
少し痩せたけれど、もう泣いていない。
目の奥には、あの日よりも強い光が宿っている。
――私、ちゃんと笑えるようになった。
心の中でそう呟いたその時、背後から声がした。
「……やっと、笑ったね」
振り向く。
そこに、悠真が立っていた。
薄いグレーのコート。
以前より少し髪が伸びて、顔がやつれて見える。
けれど、その目の奥の優しさは何も変わっていなかった。
「どうして……」
「約束、果たしに来た」
「……笑えるようになったから?」
「ああ。
でも本当は、君が笑うのを待っていた俺のほうが、
一番泣きたかった」
その言葉に、結奈の胸が熱くなる。
息が詰まり、涙が滲んだ。
「また泣かせるんですか?」
「今度は違う。
泣いてもいい。もう、“去らない”から」
その一言で、すべての時間が溶けていく。
結奈は一歩、彼に近づいた。
そして、もう一歩。
距離が消える。
腕の中に入った瞬間、心が震えた。
「……おかえり」
「ただいま」
短い言葉。
けれど、それがすべてだった。
その夜。
ふたりは並んで歩いた。
街路樹の下、白い花びらが舞い始めている。
沈黙の中に、風の音と心臓の鼓動だけがあった。
「ねえ、覚えてますか?」
「何を?」
「最初の夜。契約書にサインしたときのこと」
「ああ。
“お互いに不倫自由”って条件、笑えない冗談だったな」
「本気で信じてたんですよ、私」
「俺は、最初から信じてなかった」
「ずるい人」
「うん。でも、君が好きだったから」
結奈は笑った。
その笑顔に、悠真も微笑んだ。
沈黙が続く。
けれどその沈黙は、もう痛みではなかった。
互いの存在を確かめる、安らぎの沈黙。
帰り道、ふたりは小さな教会の前で足を止めた。
夜の光がステンドグラスに反射して、
静かに床を照らしている。
「ここ……お父様の葬儀の帰りに、通った場所だね」
「うん」
「誓いを、やり直そうか」
「え?」
悠真は、ポケットから小さな箱を取り出した。
開くと、そこには新しい指輪。
今度は、名前の刻印入り。
“Y&Y ― With tears, with love.”
「泣いても、笑っても。
どんな君も、俺の妻だ」
結奈の瞳から、また涙が零れた。
けれど、それは悲しみではなかった。
「それでも……いいんですか? また泣きますよ」
「構わない。
君が泣けるほどの愛を、これからもあげたい」
彼はその指に指輪をはめ、
そっと額に口づけた。
鐘が鳴った。
夜の空に響く、静かな音。
――もう、沈黙はいらない。
言葉にしなくても、誓いはここにある。
雪のような花びらが、ふたりの肩に舞い落ちた。
その瞬間、世界が少しだけ温かくなった気がした。
