『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

第2章「新居の午後」

 春の光がレースのカーテンを透かして、柔らかく床を照らしていた。
 ここが、今日から“夫婦の家”――そう思うと、胸の奥が落ち着かない。

 まだ段ボールがいくつも積まれたリビング。
 結奈はエプロン姿で花瓶にチューリップを差しながら、ふと呟いた。
「……やっぱり、変な感じ」
「何が?」
 声のしたほうを振り向くと、悠真がネクタイを緩めて立っていた。
 いつも会社で見るより、少しくだけた表情。
 それだけで、距離が一歩近づいたように感じてしまう。

「同じ家に悠真さんがいるって……なんだか、まだ慣れなくて」
「そりゃそうだ。昨日までは社長令嬢と秘書だったからな」
「それに、これからは“夫婦”でしょ? 形式的とはいえ」
「……形式だけ、ね」

 彼の声にほんの少し影が落ちた。
 結奈は気づかないふりをして、花の向きを直す。

「あなた、几帳面すぎるのよ。コップの位置まできっちり揃ってる」
「性格だ」
「生活音まで静かすぎるのも、落ち着かないの」
「……一人暮らしが長かったからな」

 どこか遠慮がちなやり取り。
 まるで薄いガラスの壁が二人の間にあるようだった。



 昼下がり。
 買い物袋を提げて帰ってきた結奈を、香ばしい匂いが出迎えた。
 リビングの奥、キッチンで悠真がエプロンをつけて立っている。
「……料理、できるの?」
「多少は。社長に仕えて七年、夜食くらい作ってきた」
 彼の手際は驚くほど慣れていて、包丁の音が小気味よく響く。

「結奈は、甘いものが好きだったよな。以前、会議中に焼き菓子を差し入れた時、よく食べてた」
「覚えてたの?」
「忘れるわけないだろ」

 その言葉に、胸の奥がふわりと温かくなった。
 けれど、次の瞬間には慌てて笑って誤魔化す。
「そんな昔のこと、いちいち覚えてるなんて、変ですよ」
「そうか?」
 悠真は笑わず、静かに鍋の中をかき回す。



 夕暮れ。
 二人並んでテーブルに向かい、グラスの氷が小さく鳴った。
「おいしい……」
「良かった」
 短い会話が、妙に心に残る。
 沈黙の中でも、彼の視線がこちらを見ているのが分かる。
 それが怖くて、けれどどこか安心してしまう。

「悠真さんって、どんな人が好きなの?」
 何気なく口にした問い。
 彼はナイフを止め、少し考えてから答えた。
「……素直な人。自分の気持ちに嘘をつかない人」
「ふーん。私はたぶん、違うタイプね」
「そうかもしれない」
「だって、私、恋をしたことないもの」
「……知ってる」
 その“知ってる”の一言が、やけに静かに響いた。

 食後。
 洗い物をしながら、結奈はぽつりと呟く。
「ねえ、もし私が本気で他の人を好きになったら、どうする?」
 背後で蛇口の水音が止まる。
「……その時は、その人を俺に紹介してくれ」
「え?」
「どんな相手か、確かめたい」
「確認って……まるで父親みたい」
「夫だから」
 振り向いた瞬間、彼の瞳がまっすぐ結奈を射抜く。
 その一瞬、時間が止まったようだった。

 彼の手の中のグラスが、わずかに光を反射する。
 その指に嵌められた“契約の指輪”が、まるで本物の誓いのように見えた。



 夜更け。
 寝室の灯りを消しても、胸の鼓動がやけにうるさい。
 隣の部屋から、ページをめくる音が微かに聞こえる。
 あの静かな音が、なぜこんなにも心に響くのだろう。

「好きになんて、ならないわ」
 結奈は小さく呟き、枕を抱きしめた。
 ――なのに、どうして彼の声を思い出してしまうの。
 外では春の雨が降り出していた。
 まだ知らない恋の予感を、そっと隠すように
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