『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

第4章 「雨の夜、沈黙の紅茶」


 夕方から降り出した雨は、夜になってもやむ気配を見せなかった。
 窓の外は白く霞み、街の灯がにじんでいる。
 ポトリ、ポトリと窓を打つ雨音が、静かな部屋に響いた。

 結奈はひとり、ダイニングテーブルに座っていた。
 テーブルの上には、開きかけの紅茶缶。
 その隣に、帰りが遅い悠真のマグカップが並んでいる。

「……今日も、遅いんだ」

 時計の針が十時を過ぎる。
 メールひとつ来ない。
 “契約結婚”なのだから連絡の義務なんてない。そう思いながらも、
 どこか胸の奥がざわざわしていた。

 ふと、スマホの画面を見た。
 SNSには、同期の美佐子が投稿した写真。
 「雨の夜は、彼とカフェで☕️♡」
 仲良く並んだ二つのカップ。
 結奈は、思わずその投稿を閉じた。

「……私だって、恋ぐらいしたい」
 小さく呟いた声は、雨音にすぐ消えた。



 玄関のドアが開いたのは、それから一時間後だった。
「ただいま」
 低い声とともに、雨の匂いがふわりと漂う。
 振り向くと、悠真が濡れたスーツのまま立っていた。
 前髪から水滴が落ち、頬をつたう。

「傘は?」
「持ってたけど、風が強くて意味がなかった」
「もう……風邪ひいちゃうじゃない」
 気づけば、立ち上がっていた。
 タオルを取りに走り、戻って彼の肩にそっと掛ける。

「ありがとう」
 少し驚いたように笑う彼。
 その笑顔に、胸が少し痛んだ。
 ああ、どうしてこの人の笑顔に、こんなに弱いんだろう。

「温かいもの、淹れますね」
「紅茶でいい」
「わかりました」

 湯を沸かしながら、結奈はカップを二つ並べる。
 紅茶の葉をポットに落とす音。
 立ち上る湯気とともに、ほんのり甘い香りが広がった。
 その香りが、妙に懐かしく感じた。

「紅茶、好きなんですか?」
 カップを差し出すと、悠真は静かに頷いた。
「昔、母がよく淹れてくれた。雨の日になると、決まってね」
「……優しいお母様なんですね」
「いや。厳しかった。でも、紅茶だけは優しい味がした」

 彼がカップを手に取る指が、少し震えていた。
 それを見て、結奈は思わず自分の指を握りしめる。

「悠真さん」
「ん?」
「……誰か、好きな人がいるんですか?」

 唐突な問いだった。
 けれど、知りたかった。
 この人の“好き”が、どんな色をしているのか。

 彼は少しだけ笑って、紅茶を口にした。
「いるよ」
「そう……なんですか」
 胸の奥がズキンと痛んだ。理由もなく。

「でも、その人には伝えられない」
「なぜ?」
「――契約してるから」
 その言葉に、息が止まった。
 視線が絡む。
 雨音がやけに遠く感じた。

「……冗談ですか?」
「どう思う?」
「わかりません」
「なら、そう思っておけばいい」

 彼の声は穏やかだった。
 けれど、その目の奥に隠された熱に気づいて、結奈の心臓が早鐘を打つ。



 夜が更けても、雨はやまない。
 寝室へ向かう途中、ふと振り返ると、
 リビングのソファで悠真がうたた寝をしていた。
 濡れた髪が額にかかり、手にはまだ温もりの残る紅茶のカップ。

 その姿に、なぜか涙が滲んだ。

「……どうして、こんなに優しいの」

 そっとブランケットを掛けた。
 眠る彼の指に、光る指輪。
 “契約”という名の鎖。
 それなのに――どうしようもなく愛おしい。

 窓の外で、雨が静かに降り続いていた。
 まるで、沈黙の中に“恋の音”が隠れているように。
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