『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

第5章「嫉妬のグラス」

 金曜の夕暮れ。
 結奈はオフィスの窓際で、そっと時計を見つめていた。
 針は五時を少し過ぎている。

 向かいのデスクから、同僚の坂口が笑いながら声をかけた。
「間宮さん、今日の打ち上げ、来るでしょ?」
「……あ、はい。少しだけなら」
「よかった。俺、間宮さんが来ないと盛り上がらないと思ってたんですよ」

 軽口に戸惑いながらも、結奈は微笑んだ。
 そのやり取りを、廊下の向こうから静かに見つめる視線があった。
 一条悠真。
 資料を抱えたまま、無言で立ち止まっている。
 その目に、微かな翳が宿っていた。



 夜。
 駅前のレストラン。
 グラスを傾ける照明が柔らかく、窓の外では小雨が降り始めていた。

「間宮さんって、意外とお酒強いですね」
「そんなことないですよ。これ、一杯目ですから」
 笑う結奈に、坂口が少し身を乗り出す。
「……今度、二人でゆっくり飲みに行きません?」
 一瞬、言葉が詰まった。
 “お互い不倫自由”――その契約の言葉が頭をよぎる。
 けれど、すぐには答えられなかった。

 その時、背後で低い声がした。
「結奈!」

 振り返ると、黒い傘を持った悠真が立っていた。
 濡れた髪、冷たい視線。
 周囲の空気が一瞬で張りつめる。

「……悠真さん?」
「もう遅い。送る」
「でも、まだ……」
「“夫”が迎えに来るのは、変か?」
 その言葉に、坂口が驚いたように立ち上がる。
「えっ、間宮さん、結婚してたんですか!?」
「形式だけの結婚です!」
 慌てて否定する結奈。
 しかし悠真の目は、その一言にさらに陰を落とした。

 無言のまま店を出る。
 傘の下、ふたりきり。
 雨の匂いが濃くなる。

「……どうして来たんですか」
「迎えに行く夫の義務だと思った」
「そんな義務、頼んでません」
「じゃあ聞くが――あの男に恋するつもりか?」
「それは……」
「“不倫自由”だろ? 好きにすればいい」
 彼の声は冷静なのに、どこか掠れていた。

 結奈は言葉を失う。
 雨粒が傘を打ち、二人の沈黙を包む。



 帰宅後。
 リビングの灯りがつくと、悠真は黙ってグラスにウイスキーを注いだ。
 氷の音が、かすかに響く。

「……飲みすぎですよ」
「君が言うことか?」
 低い声に、胸が締めつけられる。
 グラスの中で琥珀色の液体が揺れた。
 結奈がそっと手を伸ばしたその瞬間――

 パリン。

 ガラスの破片が床に散った。
 悠真の指から血が滲んでいる。
「悠真さん!」
 結奈は慌てて駆け寄り、タオルでその手を包んだ。
「大丈夫ですか……!」
「大したことない」
「そんなわけ――!」

 声が震えた。
 自分でも驚くほど、涙がにじんでいた。

 彼が静かに息を吐く。
「……悪かった。こんなつもりじゃなかった」
「どうしてそんなに、怒ってるの?」
「怒ってなんかいない」
「嘘」
 結奈は顔を上げる。
 濡れた瞳が、まっすぐ彼を見た。
「あなた、嫉妬してる」
「……違う」
「違わない」
 沈黙。
 その沈黙が、何よりも雄弁だった。

 包んでいたタオルが温かくなり、指先がふと触れ合う。
 その瞬間、ふたりの距離がほんの少しだけ近づいた。

「……俺は、ただ君が傷つくのが嫌なんだ」
「私を信じてないんですか?」
「信じてる。けど……怖いんだ」

 彼の声が掠れる。
 それは冷たい雨の夜に溶けていくようだった。



 雨は、まだやまない。
 夜更けの窓の向こうで、街灯が滲む。
 結奈はひとり、彼の使っていたグラスを拭いた。
 小さな欠片のひとつひとつが、光を反射する。

「……嫉妬なんて、似合わない人なのに」

 胸の奥が、痛くて苦しい。
 それでも、どこか温かかった。

 それが恋の痛みだと、まだ気づかないまま――
 彼女は静かに、割れたグラスを箱にしまった。
 まるで、壊れた心のかけらを閉じ込めるように。
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