『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』
第7章「初めての喧嘩」
翌朝、いつもよりも静かな食卓だった。
パンの焼ける香りも、カップに注がれる紅茶の音も、どこか遠い。
向かいに座る悠真は新聞を広げたまま、一度も顔を上げない。
「……昨日のこと、謝ります」
結奈が切り出すと、紙のめくれる音が止まる。
「謝ることなんてない」
「でも、言いすぎたと思って」
「本気だったんだろ?」
「ええ。本気です」
短い沈黙のあと、悠真がゆっくりと新聞をたたんだ。
その動作だけで、心臓が跳ねる。
「俺の何が、そんなに嫌なんだ?」
「嫌とかじゃなくて……私は、恋を知らないだけなんです」
「じゃあ教えてやる」
「そういう問題じゃない!」
声が弾けた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、結奈の涙を淡く照らす。
「私は“自由”でいたいの。あなたの優しさも、静けさも、時々息が詰まるのよ」
「息が詰まる?」
「全部、あなたのペースで回ってる。私、自分が誰なのか分からなくなる」
悠真の拳がテーブルの上で強く握られた。
「俺は、君を縛るつもりなんてなかった」
「でも、縛られてるのよ!」
その声は震えていた。
部屋を出ようとした結奈の腕を、悠真が掴む。
その手の熱に、彼女は反射的に振り払った。
「離してください!」
「……もう、どうすればいいのか分からない」
初めて見た、弱い声。
いつも冷静で完璧な彼が、今はただの一人の男に見えた。
「あなたは私を守ってるつもりかもしれない。でも、それは私の恋を奪ってるの」
「恋って……誰かを好きになることだろ?」
「そうよ」
「なら、もうしてるじゃないか」
「え?」
彼の言葉に、空気が止まった。
「君は俺を意識してる。怒って、泣いて、笑って……全部俺のことで心が動いてる」
「そんなの……違う」
「違わない」
彼の声が低く落ちる。
「――それを恋って言うんだ」
その言葉に、胸が強く締めつけられた。
けれど、認めたくなかった。
もし認めたら、すべてが壊れてしまう気がした。
「……あなたは勘違いしてるわ」
「そうかもしれない。でも、俺はもう君を手放せない」
次の瞬間、結奈は思わず彼の頬を叩いていた。
乾いた音が響く。
「そんな言葉、卑怯です」
「卑怯でもいい」
「あなたの優しさが、一番残酷よ」
息を呑むような沈黙。
結奈は涙をこらえながら扉を開けた。
「今夜は帰りません」
玄関のドアが閉まる音が、静かな部屋に残る。
夜。
雨上がりの街を歩く結奈の足元で、水たまりが光る。
どこへ行くかも分からないまま、駅前のカフェに入り、紅茶を頼んだ。
窓の外には、同じように迷った顔の人々。
彼女は手の甲で涙を拭う。
「……恋なんて‥」
呟きが、湯気に紛れて消える。
一方、リビングのソファで、悠真は結奈のマグカップを見つめていた。
彼女がいつも使っていた白いカップ。
口元にわずかに残る紅茶の香りが、胸を締めつける。
「……嫌われても、いい」
掠れた声がこぼれる。
「それでも、俺は君を離さない」
静かな夜。
二人の心は離れていくのに、
互いを想う気持ちは、誰よりも強くなっていた。