『契約妻なのに、夫の独占欲が止まりません』

第8章「花束と沈黙」

 翌朝。
 寝不足のまま目を覚ますと、部屋の空気はひどく静かだった。
 昨夜のことが頭をよぎる――
 叩いた頬、震える声、閉まる扉の音。

 まだ、胸が痛い。
 どうしてあんな言葉を言ってしまったのだろう。
 “あなたの優しさが、一番残酷”なんて。
 本当は、あの優しさに救われていたのに。

 カーテンを開けると、柔らかな陽の光が差し込む。
 玄関に向かおうとしたその時――足元で何かを踏んだ。

 白い花束だった。
 床にそっと置かれたまま、まだ朝露の香りを残している。
 百合とスズラン。控えめなのに上品で、どこか結奈らしい組み合わせだった。
 添えられた小さなカードに、短い文字。

 「昨日は悪かった」

 それだけ。
 署名もなく、余計な言葉もない。

 けれど、彼らしい――
 いつも言葉より行動で伝えようとする、不器用な人。

 結奈は花束を抱き上げ、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。



 リビングに入ると、テーブルの上にマグカップが二つ置かれていた。
 一つは結奈の。もう一つは、悠真の。
 湯気はもう消えていたけれど、香りがまだ残っている。

 その隣に、封筒。
 中には新しい家計簿のフォーマットが整然と並べられていた。
 几帳面な彼らしい字で、「今後の生活費は折半でいい」と一行だけ書かれている。

「……やっぱり、真面目なんだから」
 小さく笑う。
 けれど、その笑みはすぐに滲んだ。



 午後、会社の廊下で偶然、悠真とすれ違った。
 彼はいつも通りのスーツ姿で、表情には何の感情も見せていない。
 けれど、目が合った瞬間、時間が止まったように感じた。

「昨日の花、ありがとうございました」
「……届いたか」
「はい」
「そっか」
 素っ気ない言葉。
 けれど、わずかに肩の力が抜けたように見えた。

「悠真さん」
 思わず呼び止める。
「私、あなたに酷いこと言いました。……本当は、そんなつもりじゃなくて」
「知ってる」
「え?」
「結奈はいつも、本音と反対のことを言う」
「そんな……」
「俺が“優しさが残酷”って言われた時、正直、嬉しかった」
「嬉しい……?」
「感情をぶつけてくれたのが、初めてだったから」

 結奈は息を呑む。
 彼の瞳の奥に、静かな熱が宿っている。

「俺は君に嫌われてもいい。けど、無関心だけは嫌だ」
「……」
「昨日、君が泣いた時、俺も泣きそうだった」

 胸が詰まった。
 言葉が出ない。

「花束に全部込めた。……あれが俺流なんだ」
 そう言って彼は歩き去る。
 その背中を見つめながら、結奈は唇を噛んだ。

 ――あんな不器用な人、放っておけるはずがない。



 夜。
 花瓶に差した白い百合が、部屋の灯りに淡く揺れている。
 紅茶を淹れながら、結奈はひとり呟いた。
「……本当に、ずるい人」

 苦いはずの紅茶が、少しだけ甘く感じた。
 それは、まだ名前のつかない想いの味だった
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