リシェル・ベッカーが消えた日〜破滅と後悔はすぐそこに〜

リシェル・ベッカーの失踪から四ヶ月が経過。ベッカー伯爵邸にて

 フランクが王城にて取り調べを受けている頃、当主不在のベッカー邸は混乱に陥っていた。
 交渉して輸出入をする生業には、取引相手との信頼関係が大切だ。フランクが闇商会と取引してきたことが公になると、今まで信頼を築き上げてきた商会や他の貴族から取引の打ち切りを申し出る手紙が相次いだ。
 すぐに田舎の領地へ隠居した先々代ベッカー伯爵が老体に鞭打って一ヶ月ほどかけて戻ってきた。先々代当主――フランクの父親は頭を抱えながらエミリに告げる。

「未だフランクが城から戻ってきていないことから察するに、奴は黒で確定だろう。他にも違法行為に手を染めていたとしたら、ベッカー家はすぐにでも爵位を剥奪され、没落の一途を辿ることになる。……エミリ、君はギルバート公爵家に嫁いだ身だ。婚家とこれからについて話してきなさい」

 エミリにとって、先々代当主は祖父にあたる。隠居するまで同じ屋敷で暮らしていたが、その間まともに話したことはない。名前さえも今、初めて呼ばれた気がする。不義の子である自分よりもリシェルを溺愛していたとはいえ、同じ孫だ。

(もう少し丁重に扱ってくれたっていいのに!)

 それでもエミリは言われた通りにギルバート邸へ向かった。癪に障るが、あの場に留まっても経営の知識など持ち合わせていないエミリにできることはない。
 その道中にふと頭に浮かんだのは、フランクを連れていったバネッサの言葉だ。

『エミリ嬢。あなたのご生母様にお会いしたことがありますが……とっても心酔しやすい方でした。あなたはそうならないように気をつけなさい』

「……ああ、もう!」

 溢れそうな苛立ちに任せてがしがしと対面の座席を蹴る。

(お母様を知っているからって、私を馬鹿にするようなあの言い方はなんなの!? 公爵夫人なんて、ただの名ばかりだわ!)

 すでに十数年前に亡くなった母親のことを、エミリはずっと覚えている。貴族に生まれた女としての生き方を常に口にしてきた。それは家訓のように、今もなおエミリに深く刷り込まれている。
 しかし相手は公爵家。夫であるベンジャミンが未だ当主の座に就いていないため、エミリは公爵夫人ではなくただの嫁いだだけの身。抗議したところで何かが変わるわけでもなかった。
 憤慨するエミリの手を、隣に座る従者のレオニスが優しく包む。

「エミリお嬢様、落ち着いてください。お気持ちはわかりますが……」
「だったら口出ししないでよ!」
「しかし、これからギルバート家で今後についての話し合いをせねばなりません」
「……わかっているわよ。絶対、失敗はできないんだから……!」

 フランクが不在だが、エミリは当初の予定通りに流産したことを伝え、ベンジャミンとともに別邸へ移る計画を実行した。

 腹の子がいなくなってしまったことを知った先々代当主は、じっとエミリを見て様子を伺っていたが、すぐに目を伏せてギルバート公爵に伝えるようにとだけ言って、仕事に戻ってしまった。それを受けて、彼にとってエミリの存在は視界に入っていないのだと実感した。今さら好かれようとは思っていないが、実際に目の当たりにすると少しだけ胸が痛む。
 しゅんとしたエミリに、レオニスは彼女の手を優しく握り返した。

「帰ったらいっぱい甘やかしてあげるから、ね?」
「……キャンディもくれなきゃ嫌よ?」
「もちろん」

 そう言って頬に触れるだけのキスをする。
 馬車の窓からギルバート邸が見えてくると、エミリは気を引き締め、指にはめた傷だらけのエメラルドの指輪にそっと触れた。
 テオの挑発から怒り任せに投げてしまって以来失くしたと思っていたが、執事が見つけてくれていたのだ。少し傷が入ってしまったが、エミリは再び身につけることを決めた。今にも潰されそうな心臓を、指輪が優しく包んで守ってくれるような、そんな気がした。
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