「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます

10.幸せのお守り

「はあ」

 アンジェリカは窓際に頬杖をついてひとつ溜息を吐いた。けれど、すぐ傍にいたクレアはそれには何も言わなかった。

「今日は『幸せが逃げる』って言わないのね」
「ええ。もちろん言いませんよ」

 あの時はあんなに叱るように言ったのに、今の彼女はただにこにことしている。この違いは、なんだろう。

「幸せをお迎えする時につく溜息もあるのだと、私は知りましたので」

 クレアとは、家族よりも長く、近しく過ごした。
 自分のことを一番分かってくれているのは、この侍女だと思う。

 そのクレアが、最近はずっと嬉しそうだ。いそいそと花瓶の水を変えて、花を生け直す。こんな彼女はブロムステットでも見たことがない。

 そこに揺れているのは薄紫色のリラの花だ。

「ねえ、その幸せは裸足なのかしら?」
「あら姫様。当然靴を履いておりますよ。だって素敵な王子様が靴を履かせてくださいますもの」

 それは、そうなのかもしれない。物語の中の王子様は、いつも姫君に合う靴を履かせてくれるのだ。
 アンジェリカの頭の中で可愛らしい靴を履いた幸せが、ぴょこぴょこと踊っている。

 でも、十六歳のヴィルヘルムは違ったなと思った。

 あの人は、アンジェリカの履いた靴を、そっと脱がせてくれたのだ。

 ヴィルヘルムの手当てがよかったのか、捻挫した足は二、三日もすれば腫れも引いた。これならすぐに元のように過ごせると思っていたのに。

 彼は、足が完治するまでアンジェリカが部屋を出ることを許さなかった。いや、その言い方は正しくないのかもしれない。

『ああ、どっかに行きたかったらオレを呼んで』
『わたし、ちゃんともう、一人で歩けます』
『あんたそうやってすぐ無茶するだろ。いいから、また担いでやるって』
『け、結構です!』
『いいじゃん。別にそれぐらいさ』

 あんなことを何度もされたらたまったものではない。控えた侍女たちまでが、自分とヴィルヘルムの会話に笑いを嚙み殺していたのをアンジェリカは知っている。

 恥ずかしさが極限に達してもうどこかへ逃げ出したいとまで思ったのに、当の本人はふてぶてしいまでに本気の顔をしていた。

 代わりに彼が持ってきたのがこの花だ。これでも一応、見舞いのつもりらしい。

『あれ、きらいな花だった?』
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