「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます

25.重なる未来

 小さな男の子が泣いていた。きっとどこかのご令息だろう。彼の視線の先には、木の枝に風船がひとつひっかかっている。

 おそらくこの祝い席の余興か何かで配られたものなのだろう。到底子供の手で届く高さではない。

 ヴィルヘルムはすっと一歩前に出た。そして、おもむろに手近な枝に手を伸ばした。

 思わず見とれるほど軽やかに木に上ったかと思えば、風船を取ってすっくと降りてきた。身のこなしのしなやかさが、まるで猫のよう。

 汚れることも厭わずに、ヴィルヘルムは泣きじゃくる子供の前に片膝をつく。切れ長の目は深い青を湛えて少年を見つめた。

「大切なものからは、手を放してはいけない。いいね」
 言い含めるようにそう言うと、小さな手に風船を握らせた。

 やがて母親が弾かれたように飛んでくる。王太子の手を煩わせたことをひどく詫びて、何度も何度も頭を下げていた。

 ヴィルヘルムはそれに苦笑して、彼にしては珍しくやわらかに微笑んだ。

 アンジェリカは一部始終を、少し離れたところから見ていた。
 全てが、二重写しのように見えた。焼き付いたように、目から剝がせない。

「どうかしたか? アン」

 アンジェリカの姿を認めたヴィルヘルムは、心配そうに顔を覗き込んできた。よほどひどい顔をしてしまっていたのかもしれない。慌ててアンジェリカは首を横に振る。

「いえ、あなたが木に登られるとは、思わなくて」
「ああ、そういうことか」

 ヴィルヘルムは遠くを見るような目で、先ほど自分が登った木を見つめた。

「昔はよく登ったんだ。高いところに登ると気分が晴れるような気がしてな。確かに、王太子に相応しい振る舞いではなかったな」

 君は知らないだろうが、とヴィルヘルムは最後に付け加えたが、アンジェリカはよく知っている。
 だって、全部あなたに教えてもらったのだから。

「どうして、魔法をお使いにならなかったのですか?」

 今の彼なら、わざわざ木に登らずにきっとそうすると思った。風の魔法を使えば、風船を取ることなど造作もないことだったろうに。

 アンジェリカの言葉に、ヴィルヘルムはぱちぱちと瞬きをした。

「そうすればよかったと、今気付いたよ」

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