治療不可能な恋をした
プロローグ
カンファレンスルームには、朝のコーヒーの香りがほのかに漂っていた。
壁の時計は、八時を少し過ぎたところを指している。
仁科梨乃は、手元の症例リストを確認しながら、進行役の声に耳を傾けていた。
白衣の袖口を整え、ペンを握り直す手つきは無駄がなく静かだ。控えめにまとめた髪、落ち着いた雰囲気のメイク。
よく言えば落ち着いている、悪く言えば地味──自分でもそう思っているし、きっと周囲の目もそんなものだ。
「次の症例、3歳の男の子。発熱が5日続いていて、川崎病の可能性があります。今日からIVIGを投与します」
「心エコーの結果は?」
「今朝の時点では冠動脈に異常は見られません。血液データも現状では大きな問題はなく、経過観察で対応しています」
やりとりは淡々としていた。梨乃も小さく頷きながらメモを取り、必要な情報だけを正確に頭に入れていく。
静かな会議室。パソコンのキーボードを叩く音と、誰かがコーヒーをすする音。そのすべてが、朝のルーティンの一部だった。
誰かと世間話を交わすよりも、こうして診療に集中しているほうが、よほど気が楽だ。
感情や好意、打算や駆け引き。そういったものから少し距離を置いて、淡々と自分の役割を果たす。そうしていれば、大きく心が乱れることもないから。
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