タイムスリップできる傘

第十章 たおやかな安琪儿

天気……冷たい風がひゅうひゅう吹くようになり、秋が深まってきた。日が暮れるのが日ごと早くなり、暗くなると夜空にはオレンジ色の丸い月が、雲のなかから出たり入ったりしていた。

安琪儿がベッドのなかに入って寝たあと、ぼくはミー先生の傘を開いて、傘の軸についているボタンのなかから未来へタイムスリップできるボタンを押しながら
「安琪儿の十年後の姿を見たい」
と言った。傘をくるくる回すと、しばらくしてから若い娘に成長した安琪儿の姿が傘紙のなかに映し出された。
安琪儿は師範大学の学生になっていて、教育学部の小学校教員養成課程に在籍していた。大学は貴州省の貴陽にあって、この町からは遠いので、安琪儿がうちへ帰ってくることは、一学期に二、三回しかなかった。春節間近のある日、久しぶりにうちへ帰って来た安琪儿は、アパートの出入り口の近くで、偶然、馬小跳のお父さんとお母さんに、出くわした。
「あら、安琪儿、久しぶりね。帰っていたの」
馬小跳のお母さんが、懐かしそうに声をかけていた。
「昨日、帰ってきたわ」
安琪儿が明るい声でそう答えていた。
「勉強はどうですか。頑張っていますか」
馬小跳のお母さんが聞いていた。安琪儿は、にっこりうなずいてから
「頑張っています。とても楽しいです」
と答えていた。
「よかったわね。おばさんもうれしいわ」
馬小跳のお母さんがそう答えていた。馬小跳のお母さんは、安琪儿が子どものころからずっと安琪儿のことが好きだったが、今も少しも変わらずに安琪儿のことをとてもかわいらしく思っていた。
「おばさん、覚えていますか」
安琪儿がそう言って、子どものころ、馬小跳のお母さんが安琪儿にプレゼントした水晶玉のことを話し始めた。
「あのなかに入っている木を、おばさんは『念願成就の木』と、おっしゃっていたから、あれ以来ずっと、わたしは夜寝る前に、あの木をじっと見ながら、念願を心のなかで唱えていたの。そうしたら、何と、わたしの念願がかなって、師範大学に合格することができたの」
安琪儿が嬉しそうな顔をしながら、そう答えていた。それを聞いて、馬小跳のお母さんは
「よかったわね。それを聞いて、わたしも嬉しいわ」
と答えていた。馬小跳のお父さんが、そのあと
「あとでうちへ遊びに来ないか。馬小跳も今、ちょうど、うちへ帰ってきているから」
と言って、誘っていた。
「ありがとうございます。いずれまた」
安琪儿はねんごろに、そう答えていた。
子どものころの安琪儿は馬小跳のうちへよくやってきて、馬小跳に宿題を手伝ってもらっていた。しかし大きくなってからは馬小跳に対して少し距離を置くようになっていた。嫌いになったというのではなくて、幼さが抜けて、落ち着いて、たおやかな女性になっていたので、馬小跳のことを男性として意識するようになっていたからではないかと、ぼくは思った。
安琪儿のうちは三階、馬小跳のうちは五階にあるので、階段の途中で安琪儿は、馬小跳のお父さんやお母さんと別れてから、自分のうちへ帰っていった。安琪儿がうちに着くと、お母さんが料理をたくさん作って、安琪儿の帰りを待っていた。安琪儿のお母さんは六十歳ぐらいだが、見たところ、もっと年を取っていて七十歳ぐらいに見えた。不満が多かったり、心配事を多く抱えているからではないかと、ぼくは思った。
安琪儿のお母さんは、安琪儿が師範大学に進学したことが気に入らないでいた。安琪儿がうちへ帰ってくるたびに
「あなたのように成績が悪かった子が、どうして教師を志すのよ。それも小学校教員養成課程だなんて」
と、ぶつぶつ言っていた。
「小学校の先生になることは、わたしの願いだったから」
安琪儿がそう答えていた。
「自分にふさわしいと思っているの?」
お母さんが聞いていた。
「ふさわしいとか、ふさわしくないかを問題にするのではなくて、自分が何をしたいかを問題にすべきではないのかと、わたしは思っているの。『好きこそ、ものの上手なれ』と言うから」
安琪儿はそう答えていた。安琪儿のお母さんは、それでも引かなかった。
「あなたのクラスメートは、みんな立派な学問を勉強しているじゃないですか。丁文涛は経済学。路曼曼は法律学。馬小跳は建築学。そういう学問こそ、大学で学ぶべき学問であって、小学生の子どもに教える幼稚なことを学ぶなんて、恥ずかしくて人にも言えない」
安琪儿のお母さんがそう言っていた。
安琪儿とお母さんの話にそれまで静かに耳を傾けていたお父さんが口を出した。
「安琪儿の言うことにも一理あるよ。自分に能力がなくても好きで努力を続けていれば、ある程度は上手にできるようになるよ」
お父さんがそう言った。
お父さんが助け船を出してくれたので、安琪儿は嬉しそうな顔をしていた。
「わたしは知能指数はあまり高くないから、中学や高校の教師には向いていないけども、小学校の教師にはなれないこともないかなと思って師範大学を志願したの。わたしは小さな子どもが好きだし、わたしのように勉強が遅れがちな子どもがいたら、その子に優しく接しながら学力をつけてやりたいと思ったから」
安琪儿がそう言った。お父さんがそれを聞いて、うなずいていた。
「安琪儿は大学で優秀な成績を修めているから、学内で一番多い奨学金をもらっている学生のなかの一人なんだよ」
お父さんが、誇らしそうにそう言った。お母さんがそれを聞いて、口をへの字に曲げて
「それが何だと言うのよ。たいした金額ではないじゃないですか」
と、かたくなな態度で、そう言った。
「金額の問題ではないよ。学内で一番多い奨学金をもらうことは、とても栄誉なことなのだ」
お父さんが、そう答えていた。お母さんはそれでも不満そうな顔をしていた。
「そんなに栄誉あることなら、小学校の教師になるのでは役不足ではないの」
お母さんがそう言った。それを聞いて、お父さんが首を横に振った。
「そんなことはないよ。人生で初めて出会う学校の教師は小学校の教師だから、その影響はとても大きいものがあるよ。それを思うと小学校の教師の仕事はとても立派な仕事だと、ぼくは思っている。安琪儿は将来きっと、子どもたちによい影響をたくさん与えて、子どもからも保護者からも慕われる立派な教師になるよ」
安琪儿のお父さんが、そう答えて太鼓判を押していた。
それを聞いて、ぼくは安琪儿が小学校の教師になったあとの情景を見たくてたまらなくなった。ミー先生の傘の軸についているボタンのなかから未来へタイムスリップできるボタンを押しながら
「安琪儿の二十年後の姿を見たい」
と呪文のように言って、傘をくるくる回した。すると教師をしているときの安琪儿の姿が傘紙のなかに映し出された。
安琪儿は街路樹が整然と植えられている街中の歩道の上を歩いていた。安琪儿は学生のころよりも一段とたおやかになっていて、薄化粧をした顔は教師らしい品格にあふれていた。髪はさらさらしていて、手入れの行き届いた長い髪が背中まで垂れていた。
通りを歩いているとき、後ろから走って来た車が安琪儿の横で急停車して、クラクションを鳴らした。安琪儿はびっくりして、クラクションを鳴らした車を見た。運転していたのは馬小跳だった。
「安琪儿、乗らないか」
馬小跳が助手席のドアを開けてから、そう言った。
「ありがとう。でもいいわ。うちまで近いから、歩いて帰るわ」
安琪儿はそう言って、馬小跳の車には乗らなかった。
「そうか、じゃあ、先に行くよ」
馬小跳は、思いを残しながら、去っていった。
安琪儿はウインドーショッピングをしながら、うちのほうへ向かって歩いていた。しばらくすると、五十メートルほど前にある喫茶店の横の路上に、馬小跳の車が止まっているのが見えた。馬小跳は車から降りて、車にもたれながら、安琪儿のほうをじっと見ていた。
「馬小跳、そこで何をしているの。そこは駐車禁止の場所ではないの」
安琪儿がそう言った。
「分かっているよ。すぐに車を動かすよ。その前に、おまえに聞きたいがあったので、ここでおまえが来るのを待っていたのだ」
馬小跳がそう言った。それを聞いて安琪儿は急いで馬小跳のすぐ近くまで駆けて行ってから、けげんそうな顔で
「何よ。何を聞きたいのよ?」
と、馬小跳に聞き返していた。
「おまえは大きくなってから、おれにたいして、とてもよそよそしくなったが、どうしてなのだ」
馬小跳がそう言った。
「大きくなってから変わったのは、あなただって同じだわ。子どものころの、やんちゃなところは影も形もなくなって、おしゃれで身のこなしが上品になったし、高級なスポーツカーを乗り回すような粋な若者になったから」
安琪儿がそう答えていた。
「子どものころと今では、誰でもみんな違ってくる。それが普通だろう?」
馬小跳がそう答えていた。
「そうかもしれないわね。わたしが今受け持っているクラスのなかにも、あのころのあなたと同じように、とてもやんちゃな子がいるけど、大きくなったら、あなたのように変わるのかなあと、いつも思っているわ」
安琪儿がそう答えていた。
「おまえは子どものころ、おれのことを慕っていて、あがめてくれていたけど、今はどうなのか?」
馬小跳が聞いていた。
「子どものころ、わたしが、あなたを慕ったり、あがめていたのは、わたしが分からなかった宿題の答をよく教えてくれたからよ。やんちゃではあるけども、とても優秀な人だなと思って心から敬っていたわ。むろん今も優秀な人だと思っているわ」
安琪儿がそう言ったので、馬小跳はまんざらでもないような顔をしながら
「本当にそう思っているのか?」
と聞き返した。
「もちろんよ。建築デザイナーの仕事をするためには優れた想像力が必要だと思っているし、あなたの想像力は人並み外れて高いから、将来きっと一流の建築デザイナーになって世のなかに広く知られるような人になるわ。そう信じている」
安琪儿がそう言った。
「だったら、どうして今、おまえはおれと距離を取ろうとするのだ?」
馬小跳がけげんそうな顔をしながら聞き返していた。
「そういうわけではないけど、子どものころ、あまりにも、べたべたしすぎていたから、今、思うと、ちょっと恥ずかしくて……」
安琪儿がそう答えていた。
馬小跳と安琪儿が立ち話をしているとき、近くにある喫茶店のドアが開いて、なかから思いがけず、路曼曼が出てきた。馬小跳と安琪儿が喫茶店の前に止めてある車の横で立ち話をしているのを見て
「馬小跳、安琪儿、そこで何をしているの。車を早く動かしなさい。警察に連絡して駐車違反の切符を切るわよ」
と、とがった声で言った。路曼曼は神出鬼没なところがあるが、まさか路曼曼が喫茶店のなかにいたとは、馬小跳も安琪儿も思ってもいなかったように見えた。
「分かったよ。すぐに動かすよ。おまえは弁護士だから、すぐに法律のことを持ち出してとがめようとするから、不愉快だ」
馬小跳が仏頂面をしながら、そう答えていた。
「あなたたちは同じアパートに住んでいるのだから、話したいことがあったら、アパートのなかで話すこともできるのにどうして、こんなところで立ち話をしているの。家族に聞かれたくない話でもしているの」
路曼曼がそう言った。それを聞いて馬小跳がむっとしたような顔をして
「おれたちが、どこで何を話そうか、勝手ではないか。詮索するのはやめてくれないか」
と言っていた。
「わたしだって、馬小跳に言いたいことがあるわ。どうしてわたしからの電話にいつも出
ないの。わたしとは話したくないの?」
路曼曼が不機嫌そうな顔をしながら、そう言っていた。
馬小跳と路曼曼の間に険悪な空気が流れ始めていたので、安琪儿はその場をそっと去っていった。
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