タイムスリップできる傘
第十二章 ぼくのこれまでの日々
天気……冷たい秋風がひゅうひゅう吹いていて、風の音が哀歌のようにうら寂しく聞こえる。木の枝に残っていた黄色い葉が、ひらひらと舞いながら落ちていって、地面の上を、じゅうたんのように敷き詰めていった。枯葉はそのあと、かさかさと音を立てながら、風に再び舞い上げられて、哀歌に合わせて寂しげに踊っているように見えた。
今日の昼間、ぼくは久しぶりにうちへ帰ることにした。ここ数日、ぼくはずっと馬小跳や杜真子や安琪儿のうちにいて、うちには帰らなかったので、妻猫が心配しているかもしれないと思ったからだ。今朝、馬小跳が学校へ行ったあと、ぼくは馬小跳のベッドの下から出てきて、窓台に乗って、ミー先生の傘を開いた。傘の軸についているボタンのなかから空飛ぶボタンを押して、窓から外に出た。ぼくは傘の柄をあやつりながら、翠湖公園のほうへ向かって飛んでいった。
それからまもなく、ぼくは翠湖公園の湖畔に着いた。するとすぐに向こうから老いらくさんがやってくるのが見えた。
「やあ、笑い猫、おはよう」
老いらくさんが明るい声で、そう言った。
「おはようございます。お元気でしたか」
ぼくは朗らかな声でそう答えた。
「久しく、会わなかったから、どうしたのだろうと思って、わしはおまえのことをとても心配していた。さっき、空を見たら、傘が飛んでいるのが見えたので、あっ、おまえが帰ってきたのだと思って、急いで、ここまでやってきたのだ」
老いらくさんがそう言った。
「そうでしたか。ご心配おかけして申し訳ありませんでした」
ぼくは、ぺこりと頭を下げて、老いらくさんに謝った。
「どこへ行っていたのだ?」
老いらくさんが聞いた。
「馬小跳や杜真子や安琪儿のうちへ行って、ミー先生の傘を開いて、彼らの過去や将来の姿を見ていました」
ぼくはそう答えた。
「そうだったのか」
老いらくさんが、やっと合点がいったような顔をしていた。
「彼らの過去や将来について、わしも知りたいので、話して聞かせてくれないか」
老いらくさんが、そう言った。
「いいですよ。でも今はうちへ帰っている途中なので、時間がありません。あとで話して聞かせます」
ぼくはそう答えた。
「分かった。楽しみにしている」
老いらくさんが弾むような声で、そう言った。
ぼくはそれからまもなく、老いらくさんと別れて、うちへ向かった。傘の軸についているボタンのなかから走るボタンを押すと、傘はぼくを乗せてダチョウのように勢いよく走り始めた。傘の柄を巧みに操作しながら、ぼくは、あっというまに、うちの前に着いた。傘を閉じてから、うちのなかに向かって
「ただいま」
と、ぼくが声をかけると、妻猫が嬉しそうな顔をしながら出てきた。
「お父さん、どこへ行っていたの。もう何日も帰らなかったから、とても心配していたわ」
妻猫がほっとしたような顔をしながら、そう言った。
「ごめん、ごめん」
ぼくはそう言って、妻猫に謝ってから、うちへ帰らなかったわけを話した。それを聞いて妻猫が
「そうだったの。馬小跳や杜真子の過去や将来について、わたしも知りたいから話してくれませんか」
と言った。
「いいよ。でも今は詳しく話す時間がないから、あとでもいいかな」
ぼくは妻猫に、そう言った。それを聞いて、妻猫がけげんそうな顔をしながら
「どうしてですか」
と聞き返していた。
「ミー先生が旅から帰ってくる前に、傘をシャオパイに返さなければならないから、その前に、馬小跳や杜真子の過去や将来の姿をもっと見ておきたいから」
ぼくはそう答えた。妻猫はそれを聞いて
「馬小跳や杜真子のにおいが色濃く感じられるところで傘を開かないと、傘紙の上に過去や将来の姿が映し出されないのですね」
と言った。
「そうなのだ」
ぼくはそう答えた。
「分かりました。ではまたすぐに出かけてください。わたしはひとりでだいじょうぶですから」
妻猫がそう言ってくれた。妻猫はぼくの気持ちをよく分かってくれるので、とてもありがたく思っている。
「ぼくたちは人間ほど長く生きることができないから、馬小跳や杜真子が、将来どのような人になるのか知ることができないので残念に思っていた。でも幸い、ミー先生の不思議な傘のおかげで、馬小跳や杜真子たちの将来の姿を見ることができるようになったから、ぼくは今、とても嬉しく思っている。傘を返す前に、もっと多くのことを見ておきたいと思っているのだ」
ぼくは妻猫にそう言った。
「分かりました。お父さんの好きなようになさってください。限られた時間を大切に使ってください」
妻猫がそう言ってくれた。
「ありがとう。恩に着るよ」
ぼくは妻猫にすまなさそうにそう答えた。
ぼくはそれからまもなく再び、うちを出た。うちの前で傘を開いて、傘の軸についているボタンのなかから空飛ぶボタンを押すと、ぼくが乗った傘が、ふわふわと空に浮かび始めた。下から妻猫が手を振っているのが見えた。ぼくは片手で傘を操作しながら、もう片手を妻猫に振って妻猫にこたえた。傘はだんだん高く上がっていって、ぼくや妻猫が住んでいる翠湖公園がだんだん小さく見えるようになってきた。手を振っている妻猫の姿は、目を凝らしても見えなくなってしまった。町のなかを走っている車はカブトムシが動いているように見えた。ビルはマッチ箱のように見えた。悠々と広がっている天空のなかを、鳥のように飛びながら、ぼくは傘を操作しながら杜真子のうちへ向かっていた。杜真子のうちは、鐘つき堂の近くにあるので、ぼくは鐘つき堂をめざして飛んでいった。やがて眼下に鐘つき堂が見えてきた。ぼくはゆっくりと落下傘のように下に降りていった。鐘つき堂は木造の三層からなる鐘楼で高さは十六メートルあり、午前六時と正午と午後三時と午後六時に自動的に鐘が鳴って、町の人たちに時を知らせるようになっている。鐘つき堂の近くにはアパートがいくつか建ち並んでいて、そのなかの一つのアパートのなかに杜真子が住んでいた。杜真子が住んでいるアパートの上を、蝶のように優雅に飛びまわって、しばらく空中散策を楽しんでから、ぼくは杜真子のうちの窓台の上に降りた。窓の外から杜真の部屋のなかをのぞいたが、部屋のなかに杜真子はいなかった。まだ学校から帰っていないようだった。でもわずかに開いていた窓のすきまから杜真子のにおいがしていた。ぼくは部屋のなかにそっと入っていった。机の上にぼくの写真が飾ってあった。ぼくは以前、この部屋で数年間、杜真子といっしょに暮らしていたことがあるので、その写真を見ていると、あのころのことがいろいろとを思い出されて、とても懐かしくなった。ぼくが生まれてから、この家に来るまでの経緯について、ぼくははっきりとは覚えていないので、傘を使って、そのころのことを見てみたいと思った。カーテンの後ろに隠れながら傘を開いて、過去にタイムスリップできるボタンを押しながら
「ぼくがここへ来たばかりのころの姿を見たい」
と言って、傘をくるくる回した。すると傘紙の上に、ぼくも覚えていなかったぼくの赤ちゃんのころの姿が映し出された。
ある秋の日の午後、生まれたばかりの子猫がごみ箱のなかに捨てられて鳴いていた。学校から帰っていた杜真子がその声を耳にして、びっくりして子猫をごみ箱のなかから出して、てのひらにのせた。すると子猫は鳴きやんで、あわれそうな目で杜真子を見ていた。その目を見ていると杜真子はその子猫がかわいそうでたまらなくなり、うちへ連れて帰った。ところが杜真子のお母さんが険のある声で
「うちでは猫は飼えません。さっさと捨ててきなさい」
と突き放すように言った。
「お母さん、そんなこと言わないで、うちで飼わせて。わたしが大切に育てるから」
杜真子はそう言って、お母さんに懇願していた。それでもお母さんは、うんとは言わなかった。
「だめです。猫なんか飼ったら、勉強に集中できなくなるから、絶対に許しません。早く捨ててきなさい」
お母さんの厳しい口調に圧倒されて、杜真子はしぶしぶ子猫を再び抱えてうちを出ていった。ごみ箱のなかに戻すつもりはさらさらなかったし、ほかのところに捨ててくることも忍びなかったので、杜真子はダウンジャケットの下に子猫を隠して、うちへ戻って来た。
「捨ててきましたか」
お母さんが聞いていた。
「はい、捨ててきました」
杜真子は素知らぬ顔をしながら、そう答えていた。杜真子はそのあと自分の部屋に入り、鍵をかけてから、子猫をダウンジャケットのなかから出して、からの靴箱のなかに入れて、ベッドの下に隠した。それ以来、その子猫は、杜真子の部屋のなかで飼われるようになった。
ある日、杜真子のお母さんが部屋のなかを掃除するために杜真子の部屋に入ってきた。モップの先がベッドの下に入ってきて箱に触れたとき、子猫はびっくりしていたが、それでも声を出さないで、じっとしていた。幸い子猫は杜真子のお母さんに発見されなくてよかった。
夕方になると杜真子が帰ってきて、部屋に鍵をかけてから子猫を机の上に乗せて、食べ物や水を与えていた。そのあと杜真子は子猫を見ながら宿題をしていた。宿題が終わると、杜真子は心のなかにある、いろいろ思いを、子猫につぶやいていた。子猫が自分の気持ちを分かってくれるとは杜真子は、むろん思っていなかったが、子猫に話しかけることで気持ちがやわらぐようだった。
あるとき、杜真子が笑いながら、何か面白そうな話を子猫にしていた。杜真子の顔を見て、その子猫は真似をして笑ったような表情をしていた。それに気がついた杜真子がびっくりして
「あら、この子猫の顔は笑っているように見える」
と言った。
「この子猫に名前をまだつけていなかったけど『笑い猫』と呼ぶことにしよう」
杜真子がそう言っていた。
この場面を見て、この子猫は言うまでもなくぼくであり、『笑い猫』と呼ばれるようになった一番最初のときを初めて知ることができた。
ぼくは引き続き、ミー先生の傘をくるくる回して、それからあとのことを見ることにした。それからあとのことは、ぼくの記憶のなかに残っているので、それほど目新しいことではないが、杜真子といっしょに過ごしたひとときをもう一度見て、過去を懐かしむことにした。
ぼくが笑い顔を浮かべることができる猫だと分かってから、杜真子は、ぼくのことをますます好きになって、今まで以上にたくさん話しかけてくるようになった。杜真子の話を聞いているうちに、杜真子が言っている言葉の意味が少しずつ分かるようになってきた。ぼくは笑いにも変化をつけて、いろいろな笑いができるようになった。嬉しいときは、にこにこ笑い、不愉快なときは、くくくーと笑い、怒りがこみあげてきたときは、かかかーと笑い、疑わしく思ったときは、ひひひーと笑った。
杜真子といっしょに過ごしていたひとときは、ぼくにとってとても幸せな日々だった。でも幸せな日々は長くは続かなかった。杜真子のお母さんについに見つかってしまったからだ。杜真子のお母さんは、杜真子が学校から帰ってくる前に、ぼくをうちから追い出してしまった。ぼくはそれ以来、野良猫となって、町のあちこちをさまよいながら、食糧を求めてゴミ箱のなかをあさったりしていた。もともと、ぼくは自由を愛する猫だから、野良猫となって、好きなところで好きなように生活することは、ぼくの性に合っていた。この町にはもう飽きたので、もっと遠くの町に行って、これまで見たことのない世界をたくさん見て、楽しく過ごそうと思っていた。ところがこの町から出る直前に、ぼくを探しにきた杜真子に見つかってしまった。
「笑い猫、やっと見つけたわ。どれほど探したか分からない」
杜真子はそう言ってから、いとおしそうにぼくを抱えあげて胸のなかに抱いてくれた。
「あなたがいなくなってから、わたしはどれほど寂しかったか分からないわ。もう、あなたと絶対に離れないわ。わたしはうちを出てきたから、これからは、あなたといっしょに、鐘つき堂のなかで暮らしていきましょう。あなたが野良猫なら、わたしは浮浪児」
杜真子がそう言った。杜真子はぼくを胸のなかに抱いたまま、鐘つき堂に連れていってくれた。鐘つき堂のなかには空いているスペースがあったので、そのなかで生活できないこともなかった。鐘つき堂のなかで杜真子といっしょに暮らしていくことは、ぼくにとってそれほどいやなことではなかった。でも鐘つき堂のなかに入っていくところを人に見つかってしまって、杜真子のお母さんに連絡されたので、お母さんがすぐにやってきて
「どこに行ったのかと思って探していたら、こんなところに猫といっしょに隠れていて……、もう、あなたったら、どれほど分からず屋なの」
と言って、怒り心頭に発していた。それでも杜真子はひるまないで
「猫を飼うことを許さなかったら、わたしはうちへ帰らない」
と言い張って、鐘つき堂のなかから出ようとはしなかった。強情な杜真子に閉口したお母さんはしかたなく
「分かったわ。だったら責任をもって飼いなさい。もし家具を爪でひっかいて傷をつけたり、ゴミ袋を破ったりしたら、そのときは絶対に、うちのなかで飼うことを許しません」
お母さんが厳しい声でそう言った。ぼくはお母さんの言った言葉の意味が理解できるようになっていたから、肝に銘じて悪いことはしないようにした。
こうしてぼくは再び、杜真子のうちで生活できるようになった。でもぼくは少しも楽しくなかった。いつもお母さんが愚痴をこぼしながら、毛が落ちていて汚いとか、泥足で歩くので拭くのが大変だと言っているのが聞こえてきたからだ。お母さんから好かれていないことを強く感じたぼくは、ぼくのせいで杜真子とお母さんの間の親子関係がしっくりいかないのではないかと思った。そのために、ぼくはもうこれ以上、このうちで生活しないことに決めて、それからまもなく、うちを出て翠湖公園で新しい生活を始めることにした。
今日の昼間、ぼくは久しぶりにうちへ帰ることにした。ここ数日、ぼくはずっと馬小跳や杜真子や安琪儿のうちにいて、うちには帰らなかったので、妻猫が心配しているかもしれないと思ったからだ。今朝、馬小跳が学校へ行ったあと、ぼくは馬小跳のベッドの下から出てきて、窓台に乗って、ミー先生の傘を開いた。傘の軸についているボタンのなかから空飛ぶボタンを押して、窓から外に出た。ぼくは傘の柄をあやつりながら、翠湖公園のほうへ向かって飛んでいった。
それからまもなく、ぼくは翠湖公園の湖畔に着いた。するとすぐに向こうから老いらくさんがやってくるのが見えた。
「やあ、笑い猫、おはよう」
老いらくさんが明るい声で、そう言った。
「おはようございます。お元気でしたか」
ぼくは朗らかな声でそう答えた。
「久しく、会わなかったから、どうしたのだろうと思って、わしはおまえのことをとても心配していた。さっき、空を見たら、傘が飛んでいるのが見えたので、あっ、おまえが帰ってきたのだと思って、急いで、ここまでやってきたのだ」
老いらくさんがそう言った。
「そうでしたか。ご心配おかけして申し訳ありませんでした」
ぼくは、ぺこりと頭を下げて、老いらくさんに謝った。
「どこへ行っていたのだ?」
老いらくさんが聞いた。
「馬小跳や杜真子や安琪儿のうちへ行って、ミー先生の傘を開いて、彼らの過去や将来の姿を見ていました」
ぼくはそう答えた。
「そうだったのか」
老いらくさんが、やっと合点がいったような顔をしていた。
「彼らの過去や将来について、わしも知りたいので、話して聞かせてくれないか」
老いらくさんが、そう言った。
「いいですよ。でも今はうちへ帰っている途中なので、時間がありません。あとで話して聞かせます」
ぼくはそう答えた。
「分かった。楽しみにしている」
老いらくさんが弾むような声で、そう言った。
ぼくはそれからまもなく、老いらくさんと別れて、うちへ向かった。傘の軸についているボタンのなかから走るボタンを押すと、傘はぼくを乗せてダチョウのように勢いよく走り始めた。傘の柄を巧みに操作しながら、ぼくは、あっというまに、うちの前に着いた。傘を閉じてから、うちのなかに向かって
「ただいま」
と、ぼくが声をかけると、妻猫が嬉しそうな顔をしながら出てきた。
「お父さん、どこへ行っていたの。もう何日も帰らなかったから、とても心配していたわ」
妻猫がほっとしたような顔をしながら、そう言った。
「ごめん、ごめん」
ぼくはそう言って、妻猫に謝ってから、うちへ帰らなかったわけを話した。それを聞いて妻猫が
「そうだったの。馬小跳や杜真子の過去や将来について、わたしも知りたいから話してくれませんか」
と言った。
「いいよ。でも今は詳しく話す時間がないから、あとでもいいかな」
ぼくは妻猫に、そう言った。それを聞いて、妻猫がけげんそうな顔をしながら
「どうしてですか」
と聞き返していた。
「ミー先生が旅から帰ってくる前に、傘をシャオパイに返さなければならないから、その前に、馬小跳や杜真子の過去や将来の姿をもっと見ておきたいから」
ぼくはそう答えた。妻猫はそれを聞いて
「馬小跳や杜真子のにおいが色濃く感じられるところで傘を開かないと、傘紙の上に過去や将来の姿が映し出されないのですね」
と言った。
「そうなのだ」
ぼくはそう答えた。
「分かりました。ではまたすぐに出かけてください。わたしはひとりでだいじょうぶですから」
妻猫がそう言ってくれた。妻猫はぼくの気持ちをよく分かってくれるので、とてもありがたく思っている。
「ぼくたちは人間ほど長く生きることができないから、馬小跳や杜真子が、将来どのような人になるのか知ることができないので残念に思っていた。でも幸い、ミー先生の不思議な傘のおかげで、馬小跳や杜真子たちの将来の姿を見ることができるようになったから、ぼくは今、とても嬉しく思っている。傘を返す前に、もっと多くのことを見ておきたいと思っているのだ」
ぼくは妻猫にそう言った。
「分かりました。お父さんの好きなようになさってください。限られた時間を大切に使ってください」
妻猫がそう言ってくれた。
「ありがとう。恩に着るよ」
ぼくは妻猫にすまなさそうにそう答えた。
ぼくはそれからまもなく再び、うちを出た。うちの前で傘を開いて、傘の軸についているボタンのなかから空飛ぶボタンを押すと、ぼくが乗った傘が、ふわふわと空に浮かび始めた。下から妻猫が手を振っているのが見えた。ぼくは片手で傘を操作しながら、もう片手を妻猫に振って妻猫にこたえた。傘はだんだん高く上がっていって、ぼくや妻猫が住んでいる翠湖公園がだんだん小さく見えるようになってきた。手を振っている妻猫の姿は、目を凝らしても見えなくなってしまった。町のなかを走っている車はカブトムシが動いているように見えた。ビルはマッチ箱のように見えた。悠々と広がっている天空のなかを、鳥のように飛びながら、ぼくは傘を操作しながら杜真子のうちへ向かっていた。杜真子のうちは、鐘つき堂の近くにあるので、ぼくは鐘つき堂をめざして飛んでいった。やがて眼下に鐘つき堂が見えてきた。ぼくはゆっくりと落下傘のように下に降りていった。鐘つき堂は木造の三層からなる鐘楼で高さは十六メートルあり、午前六時と正午と午後三時と午後六時に自動的に鐘が鳴って、町の人たちに時を知らせるようになっている。鐘つき堂の近くにはアパートがいくつか建ち並んでいて、そのなかの一つのアパートのなかに杜真子が住んでいた。杜真子が住んでいるアパートの上を、蝶のように優雅に飛びまわって、しばらく空中散策を楽しんでから、ぼくは杜真子のうちの窓台の上に降りた。窓の外から杜真の部屋のなかをのぞいたが、部屋のなかに杜真子はいなかった。まだ学校から帰っていないようだった。でもわずかに開いていた窓のすきまから杜真子のにおいがしていた。ぼくは部屋のなかにそっと入っていった。机の上にぼくの写真が飾ってあった。ぼくは以前、この部屋で数年間、杜真子といっしょに暮らしていたことがあるので、その写真を見ていると、あのころのことがいろいろとを思い出されて、とても懐かしくなった。ぼくが生まれてから、この家に来るまでの経緯について、ぼくははっきりとは覚えていないので、傘を使って、そのころのことを見てみたいと思った。カーテンの後ろに隠れながら傘を開いて、過去にタイムスリップできるボタンを押しながら
「ぼくがここへ来たばかりのころの姿を見たい」
と言って、傘をくるくる回した。すると傘紙の上に、ぼくも覚えていなかったぼくの赤ちゃんのころの姿が映し出された。
ある秋の日の午後、生まれたばかりの子猫がごみ箱のなかに捨てられて鳴いていた。学校から帰っていた杜真子がその声を耳にして、びっくりして子猫をごみ箱のなかから出して、てのひらにのせた。すると子猫は鳴きやんで、あわれそうな目で杜真子を見ていた。その目を見ていると杜真子はその子猫がかわいそうでたまらなくなり、うちへ連れて帰った。ところが杜真子のお母さんが険のある声で
「うちでは猫は飼えません。さっさと捨ててきなさい」
と突き放すように言った。
「お母さん、そんなこと言わないで、うちで飼わせて。わたしが大切に育てるから」
杜真子はそう言って、お母さんに懇願していた。それでもお母さんは、うんとは言わなかった。
「だめです。猫なんか飼ったら、勉強に集中できなくなるから、絶対に許しません。早く捨ててきなさい」
お母さんの厳しい口調に圧倒されて、杜真子はしぶしぶ子猫を再び抱えてうちを出ていった。ごみ箱のなかに戻すつもりはさらさらなかったし、ほかのところに捨ててくることも忍びなかったので、杜真子はダウンジャケットの下に子猫を隠して、うちへ戻って来た。
「捨ててきましたか」
お母さんが聞いていた。
「はい、捨ててきました」
杜真子は素知らぬ顔をしながら、そう答えていた。杜真子はそのあと自分の部屋に入り、鍵をかけてから、子猫をダウンジャケットのなかから出して、からの靴箱のなかに入れて、ベッドの下に隠した。それ以来、その子猫は、杜真子の部屋のなかで飼われるようになった。
ある日、杜真子のお母さんが部屋のなかを掃除するために杜真子の部屋に入ってきた。モップの先がベッドの下に入ってきて箱に触れたとき、子猫はびっくりしていたが、それでも声を出さないで、じっとしていた。幸い子猫は杜真子のお母さんに発見されなくてよかった。
夕方になると杜真子が帰ってきて、部屋に鍵をかけてから子猫を机の上に乗せて、食べ物や水を与えていた。そのあと杜真子は子猫を見ながら宿題をしていた。宿題が終わると、杜真子は心のなかにある、いろいろ思いを、子猫につぶやいていた。子猫が自分の気持ちを分かってくれるとは杜真子は、むろん思っていなかったが、子猫に話しかけることで気持ちがやわらぐようだった。
あるとき、杜真子が笑いながら、何か面白そうな話を子猫にしていた。杜真子の顔を見て、その子猫は真似をして笑ったような表情をしていた。それに気がついた杜真子がびっくりして
「あら、この子猫の顔は笑っているように見える」
と言った。
「この子猫に名前をまだつけていなかったけど『笑い猫』と呼ぶことにしよう」
杜真子がそう言っていた。
この場面を見て、この子猫は言うまでもなくぼくであり、『笑い猫』と呼ばれるようになった一番最初のときを初めて知ることができた。
ぼくは引き続き、ミー先生の傘をくるくる回して、それからあとのことを見ることにした。それからあとのことは、ぼくの記憶のなかに残っているので、それほど目新しいことではないが、杜真子といっしょに過ごしたひとときをもう一度見て、過去を懐かしむことにした。
ぼくが笑い顔を浮かべることができる猫だと分かってから、杜真子は、ぼくのことをますます好きになって、今まで以上にたくさん話しかけてくるようになった。杜真子の話を聞いているうちに、杜真子が言っている言葉の意味が少しずつ分かるようになってきた。ぼくは笑いにも変化をつけて、いろいろな笑いができるようになった。嬉しいときは、にこにこ笑い、不愉快なときは、くくくーと笑い、怒りがこみあげてきたときは、かかかーと笑い、疑わしく思ったときは、ひひひーと笑った。
杜真子といっしょに過ごしていたひとときは、ぼくにとってとても幸せな日々だった。でも幸せな日々は長くは続かなかった。杜真子のお母さんについに見つかってしまったからだ。杜真子のお母さんは、杜真子が学校から帰ってくる前に、ぼくをうちから追い出してしまった。ぼくはそれ以来、野良猫となって、町のあちこちをさまよいながら、食糧を求めてゴミ箱のなかをあさったりしていた。もともと、ぼくは自由を愛する猫だから、野良猫となって、好きなところで好きなように生活することは、ぼくの性に合っていた。この町にはもう飽きたので、もっと遠くの町に行って、これまで見たことのない世界をたくさん見て、楽しく過ごそうと思っていた。ところがこの町から出る直前に、ぼくを探しにきた杜真子に見つかってしまった。
「笑い猫、やっと見つけたわ。どれほど探したか分からない」
杜真子はそう言ってから、いとおしそうにぼくを抱えあげて胸のなかに抱いてくれた。
「あなたがいなくなってから、わたしはどれほど寂しかったか分からないわ。もう、あなたと絶対に離れないわ。わたしはうちを出てきたから、これからは、あなたといっしょに、鐘つき堂のなかで暮らしていきましょう。あなたが野良猫なら、わたしは浮浪児」
杜真子がそう言った。杜真子はぼくを胸のなかに抱いたまま、鐘つき堂に連れていってくれた。鐘つき堂のなかには空いているスペースがあったので、そのなかで生活できないこともなかった。鐘つき堂のなかで杜真子といっしょに暮らしていくことは、ぼくにとってそれほどいやなことではなかった。でも鐘つき堂のなかに入っていくところを人に見つかってしまって、杜真子のお母さんに連絡されたので、お母さんがすぐにやってきて
「どこに行ったのかと思って探していたら、こんなところに猫といっしょに隠れていて……、もう、あなたったら、どれほど分からず屋なの」
と言って、怒り心頭に発していた。それでも杜真子はひるまないで
「猫を飼うことを許さなかったら、わたしはうちへ帰らない」
と言い張って、鐘つき堂のなかから出ようとはしなかった。強情な杜真子に閉口したお母さんはしかたなく
「分かったわ。だったら責任をもって飼いなさい。もし家具を爪でひっかいて傷をつけたり、ゴミ袋を破ったりしたら、そのときは絶対に、うちのなかで飼うことを許しません」
お母さんが厳しい声でそう言った。ぼくはお母さんの言った言葉の意味が理解できるようになっていたから、肝に銘じて悪いことはしないようにした。
こうしてぼくは再び、杜真子のうちで生活できるようになった。でもぼくは少しも楽しくなかった。いつもお母さんが愚痴をこぼしながら、毛が落ちていて汚いとか、泥足で歩くので拭くのが大変だと言っているのが聞こえてきたからだ。お母さんから好かれていないことを強く感じたぼくは、ぼくのせいで杜真子とお母さんの間の親子関係がしっくりいかないのではないかと思った。そのために、ぼくはもうこれ以上、このうちで生活しないことに決めて、それからまもなく、うちを出て翠湖公園で新しい生活を始めることにした。