タイムスリップできる傘

第十五章 年を取った地包天

天気…青く澄んだ空のもと、いろいろな色や形をした豪華絢爛な菊の花が美を競い合うように咲き誇っていて、深まりゆくこの町の秋の風情に華やかな彩りを添えている。

夜が明けて、朝になると、杜真子はベッドから起きて、顔を洗って、ご飯を食べてから学校へ出かけて行った。ぼくはずっと杜真子の部屋のベッドの下に隠れていた。杜真子のお母さんに見つけられるのではないかと思って、ひやひやしながら、じっとしていた。でもやはり悪い予感が当たった。十時過ぎに、部屋のなかを掃除するためにモップを持って杜真子の部屋に入ってきたお母さんに見つけられてしまった。モップの先がベッドの下に入ってきて傘に触れたから、(何だろうと)と思って、ベッドの下をのぞいたお母さんは、傘のそばにぼくがいるのを見て、びっくりしていた。
「どうしてこんなところに猫がいるの」
お母さんは怒って、モップの先で、ぼくを突いた。ぼくは慌てて傘を口にくわえて、ベッドの下から出てきて、部屋を飛び出した。玄関のドアが開いていたので、ぼくは勢いよく玄関を出て、階段のほうへ向かって走っていった。一階までかけ降りると、階段の近くに、ぼくの友だちの地包天がいて、ぼくに気がついて、かけ寄ってくるのが見えた。地包天は、杜真子のうちの近くの家で飼われている犬で、ぼくよりも年下のメス犬だ。ぼくのことを、おにいさんと呼んで慕ってくれるかわいい犬だし、以前よくいっしょに遊んでいたから、懐かしく思った。
「あれっ、おまえ、どうして、こんなところにいるのだ?」
ぼくはびっくりして、くわえていた傘を口からおろして地包天に聞いた。
「おにいさんがもうこのアパートに住んでいないことは知っているけど、以前ここでよくおにいさんと会っていたから、ここが懐かしくて」
地包天がそう答えていた。
「そうだったのか」
ぼくは、ようやく合点がいった。
「おにいさん、その傘は何?」
地包天がけげんそうな顔をしながら聞いた。
「過去や未来も見ることができる不思議な傘だ。ぼくの周りにいる動物や人の過去や未来を見ることができる」
ぼくは地包天にそう言った。地包天は何のことだか意味がよく分からないで、ぽかんとした顔をしていた。
「おまえと会うのは久しぶりだが、変わりはないか」
ぼくは地包天に聞いた。
「ええ、元気よ」
地包天がそう答えた。
「そうか。よかった」
ぼくはにっこりと笑みを浮かべた。
「元気は元気だけど、最近、体を動かすのが少し億劫になってきたから、年を取ってきたのかなあと思っている」
地包天が寂しそうな声でそう言った。
「そうか。ぼくたち動物は年を取るのが早いからな」
ぼくはそう答えた。地包天はうなずいた。
「わたしは今、心配事があって、そのために食べ物があまりのどを通らなくなったし、夜もおちおち眠れなくなった」
地包天がそう言った。
「どんなことを心配しているのだ。ぼくにできることだったら力を貸すから」
ぼくはそう言って地包天を励ました。
「ありがとう」
地包天はそう言って、自分の今の心情を、とろとろと話し始めた。
「わたしが、これから先もっと年を取ったら、飼い主さんが、わたしのことを嫌いになって、飼ってくれなくなるのではないかと思って、そのことが心配でたまらないの」
地包天がそう言った。
「そうか。そんなことを心配していたのか。でもそれは杞憂に過ぎないと思うよ。おまえの飼い主さんはとても優しい人なので、おまえが年を取っても見放すようなことはしないと思うよ」
ぼくは地包天にそう答えた。
「でも分からないわ。どんなに優しくて、どんなに犬好きな人であっても、歩くこともできないような、よぼよぼの犬になったら、飼うことが楽しくなくなるでしょうから」
地包天がそう言った。
「……」
ぼくにはどう答えてよいか分からなかった。
「おにいさん、このアパートの三〇八号室で飼われていたチワワのペイペイのことを覚えていますか」
地包天が聞いた。
「うん覚えているよ。飼い主さんがとてもかわいがっていて、外出するときはいつもいとおしそうに胸に抱えながら歩いていた。あのペイペイがどうかしたのか」
ぼくは聞き返した。
「年を取って、よたよた歩くようになったし、歯も全部抜けて、かたいものを食べることができなくなりました。トイレに行くことも間に合わなくなって、部屋のなかのあちこちで粗相をするようになりました。汚くて、部屋中に、いやな臭いがぷんぷんするようになったから、我慢できなくなった飼い主さんが、ある日、車に乗せて遠いところへ捨てにいきました」
地包天がそう言った。それを聞いて、ぼくは沈痛な思いにとらわれて、返す言葉がしばらく見つからなかった。
「そのあと、どうなったと思いますか」
地包天が聞いた。ぼくは首を横に振った。
「ペイペイは、よたよたした足取りで長い時間をかけて、このアパートに戻ってきました。でも、もとの飼い主さんはペイペイを家のなかに入れませんでした。ペイペイは仕方なく、またうちを出ていって、今は野良犬となって、町のなかをうろうろしています」
地包天がそう言った。それを聞いて、ペイペイの心情を思って、胸のなかが、きゅんとなって、せつなくてたまらなくなった。
「もしかしたら、わたしも将来、ペイペイのような目に遭うのかもしれないなあと思ったら心配でたまらなくなって、ご飯ものどを通らなくなったし、夜もおちおち眠れなくなったの」
地包天が真剣な顔をしながら、今の率直な気持ちを吐露した。
「分かった。おまえの飼い主さんは、けっしてそんなことはしないと思うけど、おまえが将来のことを、そんなに心配しているのだったら、この傘を使って、おまえの将来の姿を見てあげよう」
ぼくは地包天にそう言った。
「えっ、そんなことができるのですか」
地包天がけげんそうな顔をしていた。
「できると思う。ぼくはこれまで、この傘を使って、妻猫や老いらくさんの将来の姿も見てきたから」
ぼくはそう答えた。
「見るためにはどうすればいいのですか」
地包天が聞いた。
「この傘を開いて、傘の軸についているボタンのなかから未来へタイムスリップできるボタンを押せばいいのだ。見たい場面を呪文のように唱えると、傘紙の上にその場面が出てくる」
ぼくは地包天にそう言った。
「ここは階段の近くで人目につくから、外にある花壇のなかに入って、花のなかに隠れて見ようと思っている。ここでしばらく待っていてくれないか」
ぼくは地包天にそう言った。
「分かりました。ここで待っています」
地包天がそう答えていた。
ぼくはそれから傘を再び口にくわえながら、アパートの外にある花壇のなかに入っていって、傘を開いた。背の高い菊の花が花壇のなかにたくさん咲いていて、目隠しになっていたので、開いた傘が、外からはほとんど見えなかった。それからまもなく、ぼくは傘の軸についているボタンのなかから未来へタイムスリップできるボタンを押しながら
「地包天の老後の姿を見たい」
と言った。傘をくるくる回すと、やがて傘紙の上に、年を取った地包天の姿が映し出された。
地包天は、もうほとんど歩けなくなっていた。毛はかさかさしていて、つやがなくて少しも美しくなかった。それでも地包天は飼い主さんから、毎日きれいに毛を洗ってもらっていた。体は以前よりもかなり痩せていた。飼い主さんは、地包天に毎日、違った服を着せて、地包天を楽しい気持ちにさせて、地包天が気持ちの上で老け込むのを抑えようと心がけているように見えた。地包天は歯が抜けてしまっていたので、以前よく食べていたニンニクをかじることができなくなっていた。飼い主さんはニンニクを細かくすりつぶしたものを鶏肉スープに入れて食べやすいようにしてから与えていた。
地包天の老化はますます進んでいって、やがてまったく歩くことができなくなっていた。耳もほとんど聞こえなくなっていた。飼い主さんはそれでも地包天を見放すことはしなかった。車いすを買ってきて、地包天を乗せて翠湖公園までよく散歩に連れてきていた。翠湖公園は地包天が若かったころ、一番好きだった場所だから、翠湖公園に来ると、元気だったころの思い出がよみがえってきて、地包天の気持ちが明るくなるのではないかと、飼い主さんは思っているように見えた。
ここまで見てから、ぼくは傘を閉じて、花壇のなかから出て、地包天が待っているところまで戻っていった。ぼくの姿に気がついて、地包天が
「どうでしたか。わたしの老後の姿が見えましたか」
と聞いた。
「うん、見えたよ。とてもよかった。おまえの飼い主さんは、おまえが年を取って動けなくなってからも、けっして、おまえを見放したりしなかった」
ぼくはそう答えてから、さきほど傘紙の上に見えた光景を話した。それを聞いて地包天は感激して涙を流さんばかりに、うるうるした顔をしていた。
「わたしの飼い主さんはとてもいい人だということは知っていたけど、そこまでわたしのことに気をつかってくれる優しい人だとは思ってもいなかった。おにいさんの話を聞いて、わたしの不安が払拭されて、これからも明るい気持ちで生きていけそう。ありがとう」
地包天がそう言った。
「お礼を言うなら、ぼくにではなくて、飼い主さんに言うべきだよ」
ぼくは地包天にそう言った。
「でもわたしには人の言葉は話せないから」
地包天がそう言った。
「ぼくも人の言葉は話せないよ」
ぼくはそう答えた。
「でもぼくは、おまえが幸せな老後を過ごしている場面を見ることができたので、とても嬉しいよ。でも、一つだけ残念なことと言えば、おまえが年を取ったとき、歯が抜けてしまっていて、あれほど好きだったニンニクを、まるかじりすることができなくなっていたことだ」
ぼくは苦笑いを浮かべながら、地包天にそう言った。すると地包天が首を横に振った。
「本当は、わたしはニンニクは好きではないわ」
地包天がそう言ったので、ぼくは意外に思った。
「えっ、そうなのか。ぼくと会ったとき、いつも口のなかからニンニクのにおいがしていたので、てっきり好きだとばかり思っていた」
ぼくはそう言った。
「ニンニクが好きなのは、わたしではなくて、飼い主さんよ。初めは、わたしもニンニクのにおいは好きではなかったわ。でもにおいに慣れさせるために、飼い主さんが無理やり、わたしにニンニクを食べさせていたの。それで、仕方なく食べるよりほかなかったの」
地包天がそう言った。
「そうだったのか。それは初耳だな。でも、もともと好きでなかったら、ニンニクをまるかじりすることができなくなっても、どうってことはないよね」
ぼくがそう言うと
「もちろんよ」
と地包天が答えていた。
それからまもなく、ぼくは地包天と別れることにした。
「今日は久しぶりに、おまえと会うことができて、とても嬉しかった」
ぼくは地包天にそう言った。
「わたしも、とても嬉しいわ。わたしの老後の不安も解消できたから、これからまた元気に生きていくことができる」
地包天が明るい声でそう言った。
地包天と話をしていると、とても楽しいので、時間がたつのがはやく感じられる。話したいことがやまやまあるので、本当はもっと長く、ここで立ち話をしたいと思った。でもミー先生の傘を返す前に、見ておきたいことが、まだまだたくさんあるし、返す時間が刻々と迫ってきているので、ここでだらだらと過ごすわけにはいかなかった。ぼくはこれから馬小跳の家に行って、馬小跳がこれから先、どのような人生を送っていくのかを見ることにした。
< 16 / 21 >

この作品をシェア

pagetop