タイムスリップできる傘

第十七章 世渡り下手な丁文涛

天気……昼間はずっと冷たい風が吹いていたが、夜が更けると風はさらに強くなり、ひゅうひゅうという風の音は哀歌のように聞こえていた。夜明け前に風はやんで、音は何も聞こえなくなり、あたりはひっそりと静まり返っていた。

ぼくは昨夜からまだずっと馬小跳のうちにいて、馬小跳や、彼の同級生がクラス担任の秦先生を訪ねている場面を興味深く見ていた。
秦先生のうちで楽しいひとときを過ごした馬小跳たちは
「来年の『教師の日』に、また伺いますから、それまでお元気でお過ごしください」
と言ってから、秦先生のうちをあとにしていた。
駅へ向かう途中、馬小跳が毛超に
「おまえは、どうして丁文涛のことを持ち出したのだ」
と聞いていた。馬小跳が不愉快そうな顔をしていたので
「いけなかったか?」
と、毛超が聞き返していた。
「丁文涛は、おれたちと違って、とても優秀な学生だったから、秦先生は彼のことを思い出して、どうして今は顔を全然見せないのだろうと思って心配されていたではないか」
と、馬小跳は答えていた。それを聞いて唐飛が
「あいつには人間性というものがないよ。子どものころ、秦先生から目をかけられていたくせに、顔を全然見せないあいつは、いったいどういう神経をしているのだ?」
と言った。それを聞いて安琪儿が
「わたしもそう思うわ。丁文涛は真面目な学生だったから、あなたたちとは意見が合わなくて、口論することがよくあった。そのたびに秦先生は丁文涛の肩を持って、あなたたちを非難していた。それでも、あなたたちは秦先生を批判することなく、不当な待遇にじっと耐えていた。そして今でも秦先生のことを慕っていて、毎年『教師の日』には欠かさず秦先生を訪ねてくる。あなたたちは本当に立派だわ」
と言った。それを聞いて、路曼曼が
「今は立派でも、あのころの馬小跳たちは手がつけられないほどの腕白四人組だったから、秦先生がどれほど、苦労されたか分からないわ」
と言っていた。
「分かるわ。わたしは今、小学校の教師をしているから、秦先生の苦労を身を持って感じることができるわ。わたしが受け持っているクラスにも、あのころの馬小跳たちのような生徒がいるから、手を焼いているけど、将来、今の馬小跳たちのように立派になってくれたらいいなと心から願っているわ」
安琪儿がそう答えていた。
馬小跳がそれを聞いて、照れくさそうに笑っていた。馬小跳はそのあと路曼曼に
「子どものころ、おまえはいつも、おれたちのすることに目を光らせていて、ちょっとした悪ふざけでも見逃さないで、秦先生に告げ口をしていた。もしおまえがそうしていなかったら、秦先生も気づかないで、おれたちに怒ったりしなかったと思う」
と言っていた。それを聞いて唐飛が
「そうだ、そうだ、おまえが告げ口をしたばかりに、秦先生に余計な心配をかけてしまった。おまえのせいだ」
と言って、路曼曼に追い討ちをかけていた。
馬小跳と唐飛に責められて、旗色が悪くなった路曼曼はそれでも引こうとはしないで
「何よ、その言い方。自分たちが悪かったくせに、わたしのせいにして……」
と口答えしていた。
険悪な雰囲気になりかけていたので、毛超が話題をさっと変えようとして、丁文涛のことを再び持ち出した。
「聞くところによると、丁文涛は今もまだ深い海の底に沈んでいて、日が当たらない生活をしているそうだ」
毛超がそう言った。毛超は子どものころから情報を集めることが好きだったし、今も、いろいろなところから情報を集めてきて、丁文涛の近況もある程度知っているようだった。
「あいつは頭がよかったから一流大学に合格したが、大学では伸びなかったそうだ。みんなも知っているとおり、大学では想像力や創造力に富んでいることが研究を進めていくうえで一番求められる。あいつは記憶力は優れていたが、独創性に欠けていたので、「優」「良」「可」のうち、「可」の評価が一番多かったそうだ。しかも、あいつには社交性がないので、他の学生や指導教官と協力して研究を進めることが苦手で、そのために伸びなかったそうだ。不遇な自分を憐れんで、人を見返すために卒業後はアメリカの大学に留学しようと試みたが試験に失敗してうまくいかず、それでしかたなく銀行に就職したが、職場でもうまくいかず、今は、ひきこもりがちの生活をしているようだ」
毛超がそう言っていた。毛超の話を聞いて、夏林果が、うなずいていた。
「丁文涛は、今の自分の境遇を思って、あわせる顔がなくて秦先生のうちに行かないのかもしれないわね」
と、夏林果が言った。
「そうかもしれないわね」
安琪儿が複雑な顔をしながら、そう答えていた。
「子どものころの丁文涛は教師の受けがよくて、ほかの子どもの保護者からも立派な子どもだと見られていた。そんな自分のことを丁文涛はとても誇りに思っていて、やんちゃなあなたたちのことを軽蔑していた。ところが今は、あなたたちのほうが丁文涛よりも生き生きとした人生を歩んでいるので、嫉妬心もあって、同級生と会うことも避けようとしているのかもしれないわね」
安琪儿が丁文涛の心の奥底にあるじくじたる思いを、そのように分析していた。張達がそれを聞いて
「おれたちは、丁文涛とはあまり親しくなかったが、クラスメイトには変わりがないから、これから、あいつのうちへ行って、励ましてやらないか。秦先生も喜ぶだろうから」
と提案していた。
「うん、悪くはないね」
馬小跳がそう答えていた。
「わたしたちは、丁文涛のうちには寄らないで帰るから、行くのだったら、男の子だけで
行ってきて」
夏林果がそう言った。
「うん、分かった。今日はどうもありがとう。女の子が来てくれたから、今日はとても楽しかった。来年もまた『教師の日』に秦先生のうちで会おう」
馬小跳がそう言うと、夏林果がにっこりうなずいていた。
それからまもなく馬小跳たちは男の子だけで、丁文涛のうちへ出かけて行った。玄関のインターホンを押すと、丁文涛のお父さんが出てこられた。
「こんにちは。丁文涛はいますか。ぼくたちは、小学校のときのクラスメイトです。ぼくは張達。こいつは馬小跳。その隣にいるのが唐飛。その隣が毛超です。最近、丁文涛に会っていなかったので、どうしているだろうと思って会いに来ました」
張達がそう答えていた。
「うん、いるよ。今、あいつは、家のなかに引きこもっていて、だれとも会いたくないみたいだから、会う意思があるかどうか聞いてくる」
丁文涛のお父さんは、そうおっしゃると、いったん家のなかに戻って、しばらくしてから出てこられた。
「あまり会いたくないみたいだったが、『せっかく会いに来てくれているのだから、会ったらどうだ。会わないで帰らせるのは失礼だぞ』と、ぼくが強く言ったら、しぶしぶ、『会ってもいい』と言った。どうぞなかに入ってくれ」
丁文涛のお父さんが、そうおっしゃったので、馬小跳たちは、家のなかに入っていった。丁文涛のお父さんが馬小跳たちを客間に案内してから
「ここで待っていてくれ。呼んでくるから」
とおっしゃって、客間を出ていかれた。
それからまもなく丁文涛がお父さんといっしょに客間に入ってきた。
「やあ、丁文涛、久しぶりだな」
張達がそう言った。
「うん、久しぶりだな。おまえたち、きょうは、どうしたのだい。みんなそろって」
丁文涛が聞いた。
「今日は『教師の日』だから、秦先生に会いに行って、その帰りに、おまえのうちに、ちょっと立ち寄ってみたところだ。おまえに会えてよかった」
張達がそう答えていた。
「そうだったのか。秦先生はまだお元気でいらっしゃったか」
丁文涛が聞いた。
「うん、お元気だった」
張達がそう答えていた。
「そうか、それはよかった」
丁文涛がほっとしたような顔をしていた。
「おまえは最近、秦先生のうちに全然行っていないそうだな。秦先生がおまえのことをとても心配なさっておられたぞ」
馬小跳がそう言った。
「おまえは秦先生のお気に入りの学生だったではないか。どうして会いに行かないのか」
毛超が聞いていた。
「……」
丁文涛は答えなかった。場の雰囲気が悪くなりそうだったから、丁文涛のお父さんが口を挟んで、話題を変えようとしておられた。
「おまえたちが子どもだったころ、うちへ遊びに来たときのことを、ぼくは覚えている。
あのとき、おまえたちに将来の夢を聞いたら、楽しい夢を語ってくれた。覚えているか?」
丁文涛のお父さんが馬小跳たちに聞いておられた。
「覚えていません」
「忘れました」
「記憶にありません」
「どんなことを話したのだろう」
馬小跳たちは口々にそう答えていた。
「そうか。覚えていないか。ぼくはまだよく覚えているから、話してあげよう」
丁文涛のお父さんは、そうおっしゃってから、話を始められた。
「馬小跳は将来、遊園地のオーナーになりたいと言っていた。子どもたちが楽しく遊べるように、いろいろな遊具を、たくさん、そろえて、ディズニーランドのようなものを、この町に作りたいと言っていた。覚えているか?」
「覚えていません」
馬小跳は、苦笑いを浮かべながら、そう答えていた。
「おじさん、ぼくはどのようなことを話していましたか?」
唐飛が聞いた。
「唐飛は将来、世界中を旅行して、世界のあちこちにある、おいしい料理をたくさん食べてみたいと言っていた。覚えているか?」
「覚えていません」
唐飛は、くすくす笑いながら、そう答えていた。
「おじさん、ぼくはどのようなことを話していましたか?」
毛超が聞いた。
「毛超は将来、スパイになって、いろいろな情報を集めて、国や社会の発展に役立ちたいと言っていた。覚えているか?」
「覚えていません」
毛超は相好を崩しながら、そう答えていた。
「おじさん、ぼくはどのようなことを話していましたか?」
張達が聞いた。
「張達は将来、オリンピックに出て、短距離で金メダルを取りたいと言っていた。覚えているか?」
「覚えていません」
張達は明るい顔で笑いながら、そう答えていた。
丁文涛のお父さんが、子どものころの夢をよく覚えておいてくださったおかげで、馬小跳たちは話に花が咲いて、とても楽しいひとときを過ごしていた。
「お父さん、ぼくも、あのころのことは、もう覚えていません。どんな夢を話していましたか?」
丁文涛がお父さんに聞いていた。
「おまえは将来、立派な学者になって、ノーベル賞を取りたいと言っていた」
丁文涛のお父さんが、そう答えていた。
「そうですか、そんなことを話していましたか。少しも記憶にないです」
丁文涛は、気恥ずかしそうに、そう答えていた。
「子どものころの夢を叶えることは、なかなか難しいが、夢の実現に向けて努力していくことで青春を輝かせることができる。挫折しても悲観的にならずに前向きに歩いていくことで、新たな希望が生まれてくる」
丁文涛のお父さんがそう、おっしゃっていた。
「おじさんのおっしゃるとおりだと思います。ぼくたちはみんな、子どものころの夢を実現させることはできませんでした。でも、自分に与えられた使命を自覚して、個性を生かしながら、自分なりの道を歩んでいます」
馬小跳がそう答えていた。
「そうか。それはよかった。ぼくは今、おまえたちが、どんな仕事をして社会に貢献しているのか全然知らないから、よかったら、話してくれないか」
丁文涛のお父さんが聞いておられた。
「分かりました。まず、ぼくから話します」
馬小跳がそう言った。
「ぼくは建築デザイナーの仕事をしています」
馬小跳はそう言ってから、ポケットのなかから名刺を取り出して、丁文涛のお父さんにあげていた。丁文涛のお父さんは名刺を受け取ると
「立派になったな」
と、感心したような声で、そう、おっしゃっていた。
馬小跳はそれを聞いて、照れたような顔をしていた。唐飛がそのあと丁文涛のお父さんに
「最近、改装されたこの町の図書館や、今、作られている博物館の設計には馬小跳の意見が取り入れられているのですよ」
と言っていた。それを聞いて丁文涛のお父さんは
「すごいなあ。あのやんちゃ坊主の馬小跳が、そんなことまでできるようになっていたのか……」
と、おっしゃっていた。
「唐飛、おまえは今はどんな仕事をしているのか?」
丁文涛のお父さんが、今度は唐飛に聞いておられた。
「ぼくは今、ハルピンにある大学で国際経済学を教えています」
唐飛はそう答えてから、ポケットのなかから名刺を取り出して、丁文涛のお父さんにあげていた。丁文涛のお父さんは名刺を見ながら
「おまえもすごいな」
と、感心したような声でおっしゃっていた。毛超が丁文涛のお父さんに
「唐飛が学会で発表した論文はとても注目を浴びていて、国内のあちこちの大学から講演の依頼が次々と入っていて、ひっぱりだこの状態です」
と、答えていた。
「そうか。そんなに有名な学者になっていたのか」
丁文涛のお父さんが、ますます感心したような声で、そう、おっしゃっていた。
「毛超、おまえは今はどんな仕事をしているのか?」
丁文涛はお父さんが、今度は毛超に聞いていた。
「ぼくは今、コンピューター会社の課長をしています。先端の情報技術を取り入れたコンピューターを使って、社会のニーズにあった様々な情報を分析して、必要としている機関に提供しています」
毛超はそう答えてから、ポケットのなかから名刺を取り出して、丁文涛のお父さんにあげていた。丁文涛のお父さんは名刺を見ながら
「おまえも、すごいなあ」
と、おっしゃっていた。
「張達、おまえはどんな仕事をしているのか?」
丁文涛のお父さんが、張達に聞いていた。
「ぼくは、広州の大学で運動生理学を教えています」
張達はそう答えてから、ポケットのなかから名刺を取り出して、丁文涛のお父さんにあげていた。丁文涛のお父さんは名刺を見ながら
「おまえもすごいな」
と、おっしゃっていた。
丁文涛は、お父さんの横で、複雑な顔をしながら、同級生たちの名刺を横目でちらちらと見ていた。子どものころは、自分のほうが、はるかに優秀だったはずなのに、どこでどう歯車が狂ってしまったのだろうと思って、自分の境遇をさいなんでいるようにみえた。
丁文涛のお父さんも、口では馬小跳たちのことをほめそやしておられたが、丁文涛が意気消沈しているのを見て、もうこれ以上、ここにいるのがいたたまれなくなって、そっと客間を離れていかれた。
馬小跳たちは丁文涛の傷口に触れることはしないと決めていたので、丁文涛の今の状況を根ほり葉ほり聞いたりすることはしないで、子どものころの思い出や、あたりさわりのない話だけをしてから
「朝が来ない夜はないよ」
と言って励ましてから、丁文涛のうちをあとにしていた。
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